これまで認知とパフォーマンスを比較してきたように、この2つは全く別ものであり、場合によっては真逆の関係にある。
- 直接性と問接性
- 集約性と拡散性
- 求心的と遠心的
- 内向的と外向的
- 空間的と時間的
例えば上記のような関係だ。
だから、その特徴や機能はまったく異なっているといってもいいだろう。
しかしその一方で、この2つの関係を切り離すことはできない。
一人の人間の中で、この認知とパフォーマンスとが一つになっているからだ。
つまり、認知構造を機能させながら、パフォーマンスをしているのが人間だ!
ということだ。
哲学的にいえば、直観と行為の矛盾的自己同一といえるだろう。
心理学的に云えば、認知とパフォーマンスは、両者とも適応の手段であり、欲求が満足されるまで続けられる心理活動だ。
そのプロセスにおいて同じであることは、言うまでもないだろう。
どちらか一方だけでは欲求は満たされない
例えば、一方的に直接行動に訴えたところで、欲求が満たされることはないだろう。
また、認知が完璧な状態であっても、行動しなければ欲求が満たされることはない。
私たちは、認知とパフォーマンスをともに働かせ、それを協応させながら適応していくという本能に従っている。
こうした共通点を踏まえながら、両者の関係を改めて分析してみよう。
パフォーマンスを認知の客観的な指標としてみる
まずその前提として、認知心理学と行動心理学の対立という歴史的現実、そのなかで考える必要があるだろう。
それは、パフォーマンスを認知の客観的な指標としてみる、という視点だ。
別ない方をすれば、内側で起きている「認知」というものを、客観的に観察できる「パフォーマンス」を通じて研究するということだ。
これは、「科学という視点から心理学を成立させる方法論」としては、重要な意味をもっている。
しかし、ある種の偏見を伴う可能性もある。
なぜなら、その考え方は研究者中心のものだからだ。
下手をすると、パフォーマンスを認知を知るための単なる資料としか考えない恐れがある。
コントロールする側とされる側という考え方
パフォーマンスと認知は日常生活において、並列的に対応して存在しているものではない。
本質的には、認知はコントロールする側であり、パフォーマンスはコントロールされる側として認識されている。
言い換えれば、「パフォーマンスは、それを遂行している人の認知によってコントロールされているということになる。
この「パフォーマンスは認知によってコントロールできる」という認識が、コントロールできないという悩みや課題にもつながっていく。
認知系はパフォーマンス系の上に徐々に構築されていくという考え方
次に発達的観点からみた場合、認知系はパフォーマンス系の上に徐々に構築されていくという現実だ。
もちろん、両者ともに成熟し、発達するという過程を経過する。
しかし、認知系が言語の形成と表象の操作に大きく依存し、しかも表象はパフォーマンスによって獲得された経験の代表物であると考える。
それは、認知系がパフォーマンス系より遅れて発達することを意味する。
このような関係は、表象を操作できる唯一の動物である人間としての本質を表すものだ。
だから、ほとんどの発達理論にこうした考え方が登場してくる。
動因としての認知とパフォーマンス
次に動因としての認知とパフォーマンスがある。
例えば、食欲を満たすために認知機能を働かす場合を考えてみよう。
- よいレストランやよい食事を探す。
- レストランヘ行く。
- 食べる。
通常は上記のようなパフォーマンス手順になるだろう。
しかし、時として認知のための認知、パフォーマンスのためのパフォーマンスをすることもあるだろう。
認知のための認知
真理の探求、知識の自律性は、他のいかなる目的のためのものではない
心理学においても、認知に動因を認める理論の系譜は昔から存在しており、認知不協和理論などをもちだすまでもないだろう。
パフォーマンスのためのパフォーマンス
機能的快楽説をとなえたビューラーの遊びの理論、あるいは、ガッスリーの学習理論のような反応重視の考えかたは、その後も引き続いて存在している。
日常活動でも、無意図的な表現のなかにパフォーマンスのためのパフォーマンスの形態をみることができるだろう。
例えば、歯を磨くために、歯ブラシを持って歯磨き粉をつける、といったパフォーマンスだ。
認知とパフォーマンスを個性や人柄の両極とみる考え方
動因と切り離すことはできないが、認知とパフォーマンスを個性や人柄の両極とみる考え方だ。
能動的で活動志向の人と、受け身で認知のほうに楽しみを持っている人がいる。
これに関しては曖昧なところもあるが、パーソナリテイのディメンション(次元・その他)として考える必要があるだろう。
次回はこれらの関係について解説していこう。
ではまた。