原因と結果の法則性・論理性があることを、因果関係があると表現することは多い。
でも実際には、そこに法則は成り立たない。
確かにある種の形式的なものは存在するが、仮に原因が同じだったとしても必ず同じ結果にはならない。
そのプロセス間で触れるもの、つまり縁によってその結果が大きく異なる。
ただ、因果形式を観察することは、問題を解決する上でたいへん役に立つ。
同じような結果を招いてしまう出発点を追求できれば、回避できることもたくさんあるからだ。
また、逆に似通った望ましい結果を導くこともできるようになる。
いわゆる自分の勝ちパターンをみいだすこともできる。
問題というのは理想と現状の差によって生じる。
たとえば、理想をすべて取り除くと問題はすべて消滅する。
だが、多数の人が絡んでくるような場だと、理想を完全に排除することはできない。
また、なかなかそのような境地に至ることもできないだろう。
したがって、どうしてもこの形式の追求を行わなければならない事情に追いやられる。
因果形式には2つのパターンが考えらる。
原因(出発点)が明確で、似通った結果になるパターン。
もう一つは、鶏と卵の関係のように、ある原因が直接他の結果を導き、その結果がさらに別の結果を導くというパターンだ。
いずれにせよ、適正な前提をみいだせないまま、勝手気ままに因果形式を創造しているケースは多い。
直感や思い込みなどによる軽率な判断は、形式を歪めてしまう。
その結果あやまった実行計画を導いてしまう可能性は非常に高い。
その計画に基き行動しても、望むような結果は得られないだろう。
また、例外的なことと一般的なことを混同してしまっているケースもよく見受けられる。
たとえば、想定した望ましい結果に導くために、チャンピオンデータ(自分たちに都合のいいデータ)だけを集め活用し身勝手な論理を捏造する。
自分の主張を通すために偶然起こった事柄を主原因とみなしてトークを展開する。
誤った可能性の判断や影響度の軽視が、とてつもない損害につながってしまうこともある。
東日本大震災に伴う原発事故などは、その典型的な例だろう。
そしてまた、原因が明確で似通った結果になる形式と卵と鶏のような形式を混同しているケースもある。
たとえば、そこに形式性は認められるものの、どちらが出発点かわからないまま、といったケースだ。
このケースは非常に厄介だ。
真の原因を突き止めた上で、その真の原因を解決するための対策を考えることが問題解決のプロセスだからだ。
「出発点はどこか?」これが問題を解決する上での最初の最重要ポイントだ。
もっとも重症なのは、相関関係と因果関係を混同しているケースだ。
相関関係とは、ある一方が変化すると、もう一方も変化する関係性のことだ。
つまり、そこには2つの結果しか存在しない。
相関関係しか存在していないのに、そこに因果形式もあると思い込んでしまうと、問題は解決できなくなる。
それどころか、より難解になってしまう。
そのよな時には、2つの結果に共通した原因となる第三の因子を見つけるといい。
その第三因子によって因果形式をみいだすことができる場合もあるからだ。
因果形式を持たない結果同士を引き合いに出して、問題解決の対策を検定しても埒が明かない。
その背景に隠された第三の因子をみいだし、そこに因果形式が存在しているのか、あるいは第三因子が存在しているだけで、その第三因子と2つの結果の間に相関関係があるだけなのか、慎重に見分ける必要がある。