欲望の機械としての「わたし」──スキゾとパラノイアのあいだでバランスをとる生き方

欲望の機械としての「わたしたち」をどう扱うか

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※ 医療的診断ではありません。セルフケアの参考情報としてご活用ください。

人間は、心も身体も欲望の充足をめざす機械にすぎない――これは哲学者ジル・ドゥルーズの言葉です。少し乱暴に聞こえるかもしれませんが、「私たちはとても理性的に生きているつもりでいて、実はほとんどの選択を“欲望”側から動かされているのではないか」という問いかけでもあります。

ドゥルーズはさらに、欲望とは本来、多様な方向へと流れ出ていくものであり、本質的にはどんな規制(コード化)によっても完全に囲い込むことはできない、とも述べています。欲望は、固定された形ではなく、つねに動き続ける流れのようなものだ、というわけです。

この発想をさらに押し進めたのが「リゾーム」という概念です。彼の言葉を借りれば、リゾームとは、多様性と非階層性を原理とする非中心化システム。一本の幹から上へ伸びる樹木ではなく、どこからでも枝分かれし、あちこちから根を張る地下茎のようなあり方です。

もし、私たちが「欲望の充足をめざす機械」であり、その欲望がリゾームのように四方八方に広がるものだとしたら――。何も手当てをせずに放っておけば、世界はたちまち無秩序になって崩壊してしまうかもしれません。だからこそ、社会には道徳や規範という「ルール」が存在し、欲望の暴走を押さえ込む役割を担っているのでしょう。

欲望を内側から規制する「エディプス」と、その反転

では、そのルールはどのようなプロセスで生まれてきたのでしょうか。事実に基づき、冷静に設計された「上からのルール」だけでしょうか。

ジークムント・フロイトの提唱した「エディプス・コンプレックス」は、もう少し内側のレベルについて語ります。子どもは、異性の親に対して愛情を感じる一方で、同性の親にライバル心を抱きます。異性の親との関係には、まだ言葉にならない性的な欲望も含まれ、それをもう一方の親が「禁じる」役割を果たす――という構図です。

実際にその欲望を行動に移すことは不可能なので、子どもはそれを想像の世界へと押し込めるようになります。このプロセスを通じて、

  • 欲望をそのまま外へ出すのではなく
  • 内側で押さえ込み、ルールに従うように調整する

という思考パターンが身についていく。
つまり、私たちの内面にはすでに、「欲望を規制する装置」のようなものが埋め込まれている、という理解です。

一方で、ドゥルーズはこの構図に対するアンチテーゼとして「アンチ・エディプス」を提示しました。欲望をすぐに「家族ドラマ」や「父・母・子ども」という枠に押し込めず、もっと広いネットワークの中で捉え直そうとしたのです。

スキゾフレニアとパラノイアのあいだで生きている

エディプス的な規制と、それを壊そうとする欲望。その二項対立を、さらに脱構築(デコンストラクション)して眺めてみると、こうしたイメージになります。

  • 規制の殻を破り、欲望のまま生きようとすると、現実との接点が崩れ、激しい歪みや錯乱(スキゾフレニア的な状態)に陥るリスクがある。
  • その辛さから逃れるために、今度は「こうあるべきだ」「世界はこうなっているはずだ」という物語に閉じこもると、妄想世界(パラノイア)的な安定の中に絡め取られてしまう。

私たちは、欲望のままに生きたいと願いつつ、そのままでは壊れてしまう怖さも知っています。
その怖さから逃れるために、「正しさ」や「常識」や「こうあるべき」という物語に避難し、精神の安定を図ろうとします。

つまり、

  • 欲望に突き動かされるスキゾフレニア的な力
  • 物語に閉じこもって秩序を守ろうとするパラノイア的な力

この真っ向から対立する二つの力の狭間で、なんとかバランスを取り続けているのが、私たちのふだんの生き方だとも言えるでしょう。

どちらかを選ぶのではなく、「場面ごとに使い分ける」

では、充実した人生を送るためには、どちらを選択すればよいのでしょうか。
スキゾフレニア的な生き方か、パラノイア的な生き方か――。

答えを先に言えば、どちらも必要です。

たとえば、

  • 仕事やビジネスなど、経済が絡む場面では、既存の枠組みを一度壊し、新しい価値を生み出すための「スキゾフレニア的な力」が役に立つ
  • 一方で、家族との時間やプライベートな生活の場では、「安心」「物語」「一貫性」を支えるパラノイア的な要素も、心の安定に欠かせない

というように、状況によって求められるバランスは変わります。

ただし注意したいのは、自覚のないまま、パラノイア的な生き方を選んでしまうのが、私たちの性(さが)だということです。
「こうあるべき」「みんなそうしている」「常識的に考えて」という言葉の影に隠れて、欲望のエネルギーを自ら封じ込めてしまう。

両極のあいだに「観察する自分」を置いてみる

Pathos Fores Design の視点から言えば、重要なのは、

  • スキゾフレニア的な衝動(壊して、飛び出していこうとする力)
  • パラノイア的な安定(物語やルールに守られようとする力)

このどちらか一方に同一化することではなく、
そのあいだに「観察者としての自分」をそっと置いてみることです。

「ああ、今の自分は、ちょっとスキゾ寄りになっているな」
「ここでは、パラノイア的な安心に逃げ込みたくなっているな」

そうやって、両極のあいだを揺れ動く自分を、そのまま眺めてみる。
その一瞬の「距離」が生まれるだけでも、選べる行動は少し変わってきます。

欲望のまま突っ走るのでもなく、ただ正しさにしがみつくのでもなく。
スキゾとパラノイア、その両方を自分の内側に認めながら、状況に応じて少しずつ使い分けていくこと。
そのプロセス自体が、「自分の感性と生き方を、もう一度内側からデザインし直す」という営みでもあります。

あなたの中の欲望の流れと、あなたを守ろうとする物語。その両方を抱えたまま、どんなバランスで生きていきたいか――。
ぜひ、一度ゆっくり考えてみてください。

ではまた。

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