
私たちの世界は「その場限りの意味」でできている
前回は「ベンツ」という言葉を例に、人がしばしば明示的な意味(デノテーション)よりも、潜在的な意味(コノテーション)に強く影響されていることを見てきました。
ベンツに限らず、私たちの生活環境そのものが、実は言葉から受け取る「意味」の集合体だと言ってもよいかもしれません。
デノテーション/コノテーションという用語もそうですし、「生活環境」という言葉自体も、実体というより「意味」として私たちの中に存在しています。
多くの人は、その意味があらかじめ固定されているように感じています。
しかし実際には、そうとは限りません。
言葉が使われる「かたち」、繰り返される「類似性」、そしてそこで感じる「臨場感」。
それらが重なったところに、その場限りの「意味らしきもの」が立ち上がっているに過ぎないのです。
同じ言葉を使っていても、その本質的な意味は、誰が・どの文脈で使うかによって大きく揺らぎます。
意味は、生存本能と環境から同時に「書き換えられる」
私たちが言葉の意味を受け取るとき、そこには大きく分けて二つの力が働いています。
- ひとつは、社会的な文脈──文化や教育、メディアが作り出す「こういう意味で使うのが普通だ」という枠組み。
- もうひとつは、生存本能──安全でありたい、損をしたくない、仲間外れになりたくない、といった感情の側の力。
この二方向からの支配を受けることで、ひとつの言葉の意味は、
私たちがそれを口にした瞬間、その場で別の姿に変化してしまうことがあります。
つまり、私たちは常に、不確定で流動的な意味世界のなかで暮らしている、ということです。
はじめから安定して生きることなどできない世界で、私たちはなんとか安定を確保しようと試み続けているわけです。
「固定点」を求めれば求めるほど、不安定になる矛盾
不確かさの中にいるからこそ、私たちは「固定点」を探します。
別の言い方をすれば、「これはこうだ」と断定してくれる、演繹的で信頼できる証明を求め続けています。
もし、本当に明示的な意味だけで世界が説明できるのなら、それで十分なはずです。
しかし現実には、私たちは自分でコノテーション(潜在的意味)を創り出し、そこに意味や物語を足していきます。
自動車の本来の目的は「安全に移動できること」です。
その意味だけを大切にするのであれば、「高級車」である必要はありません。
時計も同じで、「日時が分かる」だけなら、何千万円もする必要はないはずです。
それでも私たちは、「本来必要な機能だけ」で満足できないことを知っています。
そこに、状態や物語をまとわせるコノテーションを自ら生み出し、そのために時間やお金を投じてしまう。
では、その潜在的な意味を生み出す「源」はどこにあるのでしょうか。
固定点を作るたびに、「固定点からこぼれるもの」が生まれる
先ほど、私たちは「固定点」を探していると書きました。
実は、固定点を求めるという行為そのものが、同時に新たな問題も生み出しています。
何かを言葉で「これだ」と固定しようとした瞬間、
- その言葉で表された部分と、
- 表されずに外側へ押しやられた部分
が、同時に生まれるからです。
つまり、創り出した固定点には、はじめから
「固定点から外れたもの」も内在していると言えます。
そして、その影響を完全に無視することはできません。
もし明示的な意味だけで世界が足りるなら、詩や俳句、美術や音楽といった芸術は必要ないはずです。
しかし現実には、多くの芸術作品が存在し、今も私たちを静かに揺さぶっています。
それは、私たち自身が、
- 固定点に安定を求める一方で、
- 固定点では捉えきれない曖昧さや揺らぎの中にも、安らぎや救いを感じている
からかもしれません。
言葉の曖昧さに「救われたい」と思っている自分
こうして見ると、私たちは最初から、ある種の矛盾を抱えた構造の中に投げ込まれていると言えます。
- 意識のレベルでは、不確定で流動的な支配構造から逃れ、安定を得たいと願っている。
- 一方で、本能のレベルでは、言葉が持つ曖昧さや含みの中に身を浸し、物語に戯れていたいとも願っている。
自分の人生に余計な問題を引き起こしているのは、実はこうした構造そのものだと感じながらも、
その構造によって救われたい、幻想の世界に連れていってほしい──そんな二重の欲求を同時に持っているのです。
その中心にあるのが、曖昧で不確定な構造を持ち、その場限りの意味を生み出し続ける「言葉」そのものです。
矛盾した世界で、どうやって人の成長を支えるか
では、すでにこうした矛盾を抱えた環境のなかで、私たちはどうふるまうべきでしょうか。
- どうすれば、相手に行動を促し、成長を支えることができるのか。
- どうすれば、相手の世界の「かたち」「類似性」「臨場感」を素早く見抜き、より適切な道へと導くことができるのか。
コーチングやコンサルティング、あるいは日常の人間関係においても、
これはとても難しく、同時に避けて通れない問いです。
明快な正解をひとつ示すことはできないかもしれません。
ただ、少なくとも言えるのは、
- 言葉のデノテーションとコノテーションを意識にのぼらせること
- 固定点に安住しすぎず、同時にまったくの流動性にも飲み込まれない態度を探ること
その両方が、これからの対話や支援のあり方の土台になっていく、ということです。
この矛盾した世界で、自分はどう人と関わり、どのような言葉で世界を描き直していきたいのか。
改めて、自分自身の感性で、静かに考えてみていただけたらと思います。
ではまた。



