前回は「ベンツ」という言葉を通して、人は明示的意味よりも潜在的意味に、より強く影響されていることなどについて話しました。
ベンツという言葉もそうですが、私たちの生活環境は、こうした言葉から受け取る「意味」によって構成されています。
デノテーション、コノテーションという言葉もそのひとつですし、「生活環境」と認識しているものも「意味」そのものだとも言えます。
多くの人は、その意味があらかじめ特定されているように思っているようですが、実はそうではありません。
言葉が使われる「かたち」「類似性」「臨場感」を伴ったカタチの、「その場限りの意味とよんでいるような認識」が生まれているに過ぎません。
つまり、同じ言葉を使用しているようであっても、使用者によってその本質的な意味は異なります。
また、私たちは生存本能からの支配も受けています。
この二方向からの支配によって、ひとつの言葉の「意味」が、使用した瞬間に変わってしまうわけです。
つまり、私たちは常に不確定かつ流動的な世界の中で生活していることになります。
はじめから、安定して生きることなどできない世界で、常に安定を図ろうと試みているわけです。
要するに、安定を求めれば求めるほど、不安定な状態を確定させてしまうということです。
それゆえに、私たちは常に「固定点」を探し求めています。
別な言い方をすれば、何かを断定して言い切ってくれるような、演繹的で信頼できる証明を探しています。
そうであるとしたなら、私たちの世界に明示的意味さえ存在すれば事足りるはずです。
では、なぜ私たちは「コノテーション(潜在的意味)」を自ら創り出すような、ややこしい真似をしたがるのでしょうか?
このコノテーション(潜在的意味)が、私たちの人生に余計な問題を創り出している張本人だとも言えるのに・・・
先の「ベンツ」の事例で言えば、自動車の本来の目的を考えるならば、別に「高級車」でなくても走ればいいわけです。
時計にしても日時が確認できればよく、なにも何千万もするものでなくてもいいわけです。
真にデノテーションのみを求めるのであれば、購入費を工面するために必要以上に働かなくても済みます。
でも、私たちはそうしようとはしません。
本来必要なものだけで満足することはありません。
では、その潜在的意味を生み出す「源」になっているものは何か?
先程、固定点を探し求めているという話をしました。
実は、その「固定点」を探したり、あるいは創り出そうとすることによって、同時に問題も創り出しています。
そこには、言葉で表して固定しようとした意味と、その言葉で表されない「固定しようとした意味から外れるもの」が生まれるからです。
別な言い方をすれば、創り出したその固定点には、「固定点から外れたもの」が内在していて、どうしてもその影響を受けてしまう。
例えば、明示的意味だけで事足りるのであれば、詩や俳句など、芸術的なものは必要ないはずです。
しかし、実際には多くの芸術が存在し、私たちを魅了する作品もたくさん存在しています。
そう、私たちは「固定点」に安定を求める一方で、固定点を創らないことでも安定したいと願っています。
これは、言葉の世界の限界が生み出す「矛盾」とも言えます。
そう、そんな「矛盾」を抱えた構造の中に、既に投げ込まれているのです。
意識的には、不確定かつ流動的な支配構造から逃れたいと願う一方で、本能的には言葉のもつ「曖昧さ」に戯れていたいと願ってもいます。
自分の人生に余計な問題を引き起こす構造を創り上げている存在から逃れたい、しかし、その存在によって救われたい、幻想世界にいざなってほしいとも願っています。
その存在こそ、曖昧で不確定な構造を所有した、その場限りの意味を生み出す言葉だということです。
では、既にこうした「矛盾」を抱えた環境下で、どうすれば相手に行動を促し、成長させることができるでしょうか?
どうすれば相手の世界の「かたち」「類似性」「臨場感」をいち早く見抜き、適切な道を歩ませることができるでしょうか?
みなさんも考えてみてください。。。。
ではまた。