早朝の歩道で起きた、ささやかな“衝突”

ある早朝、愛犬(四国犬)と散歩をしていたときのことです。
かろうじてすれ違えるほどの狭い歩道を歩いていると、前方から一人の歩行者が近づいてきました。相手との距離、犬の性格、歩道の幅。そのすべてを一瞬で勘案しながら、私は「このまま正面からすれ違うのは、少し危ないかもしれない」と直感しました。

一緒に歩いている四国犬は、初対面の人に対して警戒心を見せることがあります。普段からそれを分かっているからこそ、必要以上に近づけないように気を配ってきました。
そこで私は、相手に道を譲るため、数秒だけ車道側に避けることにしました。車の状況を確認しつつ、白線の内側を慎重に歩き、相手にはできるだけ広く安全なスペースを残そうとしたのです。

ところが、すれ違いざまに「道路交通法違反だ」といった強い口調の非難でした。
さらにその方は、「だったら止まれよ」「犬は所詮、モノなんだよ」と言葉を重ねてきました。その一言は、私にとって、犬との時間や日々積み重ねてきた関係性そのものを否定されたようにも聞こえました。

思わず私も言葉を返し、短い口論のような形になりかけました。その最中、ふと「この方は今、心に余裕がない状態なのかもしれない」と感じて、「わかったよ」とだけ告げ、その場を離れました。

散歩を続けながらも、胸の中にはザラザラした感覚が残りました。「自分が悪かったのか?」「あの言葉を飲み込んだのは、ただ我慢しただけなのか?」──その問いが、少しずつ形を持ちはじめていったのです。

「自分が悪かったのか?」というざらつきをほどく

理不尽な言葉を浴びたとき、多くの人は反射的に二つの方向に揺れます。
一つは、怒りや反発。「なんでそこまで言われなきゃいけないんだ」という気持ち。もう一つは、妙な自己嫌悪。「自分にも落ち度があったんじゃないか」「もっと違うやり方があったんじゃないか」という迷いです。

私自身も、今回の出来事では、その両方を味わいました。相手の言い方の強さの前に、一瞬「自分が間違っていたのでは」と感じたのも事実です。相手が法律を持ち出してきたことで、「筋としては自分が悪いのか?」という不安も生まれました。

しかし、時間をおいて冷静に見直してみると、状況はまったく違って見えてきます。
私は、四国犬の警戒心歩道の狭さ相手の安全、そして周囲の交通状況を踏まえたうえで、「お互いにとっていちばん安全でストレスの少ない選択」をしたつもりでした。意図という意味では、きわめて妥当な行動だったはずです。

それでも心に残ったざらつきは、「相手の言葉が正しかったかどうか」そのものより、「自分がその場でどう振る舞ったか」を、自分自身が後からチェックしていたからこそ立ち上がってきた感覚なのだと気づきました。
これは自分の感性と判断軸を、あとから丁寧に検証し直すプロセスです。出来事そのものよりも、「あのときの自分は何を大事にしようとしていたのか」に目を向けることで、ザラザラした感覚は少しずつ輪郭を変えていきました。

法律よりも先に見るべきもの──「意図」と「配慮」という文脈

もちろん、道路交通法というルールは大切です。ただ、今回のような場面は、「法律を守る/破る」という二択だけでは捉えきれない要素がいくつも絡み合っていました。
犬が見知らぬ人に警戒し、うなり声をあげることがある。その性格を知っているがゆえに、私は相手に恐怖を与えないよう、あえて距離をとりました。これは、自分の犬をコントロールする責任であると同時に、相手に余計なストレスやリスクを与えないための配慮でもあります。

行動だけを切り取れば「車道側に出た」という事実だけが残ります。しかし、その裏には、

  • 犬の特性を理解し、予測されるリスクを避けようとしたこと
  • 相手の恐怖心や不快感をできるだけ減らそうとしたこと
  • 後続車を確認しながら、短時間だけ白線の内側にとどめたこと

といった、いくつもの意図と配慮が折り重なっています。
大事にしたいのは、「形式的な正しさ」だけで他人を裁くことではなく、その人が何を守ろうとして行動していたのかという文脈を汲み取る視点です。

一方で、すれ違った相手は、その文脈に目を向けることなく、「自分の中の正しさ」だけを盾に非難してきたように感じました。
ここには、ルールそのものより、自分の不安や苛立ちを相手にぶつけてしまう心のパターンが見え隠れします。

私たち自身もまた、別の場面では同じことをしてしまう可能性がある。そう思うと、この出来事は単なるトラブルではなく、自分自身のあり方を照らし返す鏡として扱うことができるのではないかと感じています。

「犬は所詮モノ」という言葉が映し出すもの

「犬は所詮、モノなんだよ」という一言には、その方が世界をどう見ているのかが、濃縮されて表れているように思えました。
法律上、動物が「物」として扱われる場面があるのは事実です。しかし、日々を共にしている存在に対して、「所詮モノだ」と言い切るかどうかは、その人が何を大切にして生きているかの問題です。

私にとってこの子は、単なる所有物ではありません。日々の時間をともに重ねてきた相棒であり、家族の一員です。その前提でこの言葉を浴びせられたなら、強い違和感や怒りが湧き上がるのは、ごく自然な反応でした。

大切にしているのは、「何を持っているか」よりも、「どんな関係性を大事にしているか」という視点です。
犬をモノとして扱う感覚に違和感を覚えたこと自体が、私の中に「いのちとの関わり」を大切にしたいという感性がある証拠でもあります。その感覚こそ、すでに一つの“自分軸”なのだと、あのやり取りを振り返りながら感じました。

こうした衝突の場面では、相手の価値観を変えることはほとんどできません。ですが、「自分は何をモノ扱いしたくないのか」「どこから先は、お金やルールよりも大事にしたい領域なのか」を自覚するきっかけにはなります。
あの一言は、私の中にある「これはモノではない」「ここには意味がある」と感じる感性を、逆照射する役割を果たしていたのかもしれません。

他人のルールに飲み込まれないための「境界線」

口論になりかけたその瞬間、私は「この方は、いま心に余裕がないのかもしれない」と感じ、「わかったよ」と言ってその場を離れました。この選択には、自分でもあとから考えてみて、思った以上に大きな意味があったように思います。

一見すると、「言い返さなかった」「押し切られた」とも見えるかもしれません。しかし、内側で起きていたのはむしろその逆でした。
私はそのとき、

  • これ以上やり取りをしても、互いに理解は深まらないだろうこと
  • 相手は、今の私の言葉を受け取る状態にないこと
  • ここから先は「相手の課題」であり、自分の課題ではないこと

を直感的に感じ取り、「これ以上は引き受けない」という境界線を引いたのだと思います。

PFDで扱う「自分軸」というのは、決して「いつでも言い返す強さ」のことではありません。
むしろ、

・自分が何を大切にして行動したのかを、自分自身が分かっていること
・他人の感情の荒波すべてを、自分が引き受けようとしないこと

のほうが、長い意味でははるかに重要だと感じています。

「説明は一度まで」「その後は、相手がどう受け取るかは相手の領域」と自分の中で決めておくと、こうしたすれ違いの場面でも、自分をすり減らしすぎずにいられます。今回私が取った「わかったよ」と場を離れる選択は、感情的な逃げではなく、自分と犬を守るための境界線を引いた行為として読み替えることができると、今は感じています。

日常の小さなトラブルを、「感性のリハーサル」に変える

路上でのささやかな衝突は、後味の悪さだけが残りがちです。
しかし、そこに少しだけ手を入れて、

「あのときの自分は、何を守ろうとしていたのか」
「本当は、どんな選択を良しとしたいのか」

を言葉にしていくと、それは自分の感性と自分軸をチューニングするための“リハーサル”に変わっていきます。

愛犬の性格を理解しているからこそ、人との距離を取った。
相手を怖がらせたくないからこそ、あえて自分が車道側に出た。
それでも理不尽な言葉が飛んできたとき、必要以上に巻き込まれないように、その場を離れた。
こうして振り返ってみると、そこには一貫した「優先順位」が見えてきます。

それは、「ルールそのもの」よりも、「目の前のいのちと関係性をどう扱うか」を大事にする態度です。
この優先順位は、路上だけでなく、仕事や家族、人間関係、そしてこれからの生き方やお金の選び方にも、そのまま反映されていくはずです。

日常の中でふと生まれた違和感やモヤモヤを、そのまま飲み込んで終わらせるのか。それとも、一度立ち止まって「自分は何を大切にしたかったのか」と問い直すのか。
両者の積み重ねの差が、数年後、数十年後の「生き方の輪郭」に少しずつ影響していくでしょう。

もしこれを読んでいるあなたにも、「あのときの出来事が、なぜか忘れられない」という体験があるなら、それは単なる嫌な記憶ではなく、自分の感性と自分軸を再確認するための入り口かもしれません。
そうした出来事をほぐしながら、「これからどう生きていきたいのか」という問いへと結び直していく対話を大切にしましょう。

暮らしの輪郭を、内側から描きなおす

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