今回は、自己啓発系ビジネスなどで頻繁に用いられている法則や原則などについて考えてみよう。
法則という言葉の解釈として「守らなければならない決まり。規則。おきて。」 「一定の条件下で、事物の間に成立する普遍的、必然的関係。」と辞書には書かれている。
また原則という言葉に関しては「多くの場合に共通に適用される基本的なきまり・法則。 」と辞書に書かれている。
辞書に書かれている解釈を鵜呑みにして、そのような類のものが本当にあると思い込んでいると、セルフイメージを改善する際に邪魔になる。
また、ライフプラン(人生設計)に支障をきたし、キャッシュフローを生み出す上で大変厄介な問題を作り出す。
例えば、、、、、
法則についてウィトゲンシュタインは次のように言っている。
自然は自然の法則を知らない、そこにあるのは人間の論理だけ
「世界や自然を、何かオートマチックに動く精密なものだ、と考えるのは間違いだ。
自然現象が、自然の法則によって動いている、と考えるのも間違いだ。
自然は、自然の法則を知らない。
自然の法則とは、自然が備えている法則ではなく、自然と接した経験から、人がどうにか導き出した単純な法則のいくつかに過ぎない。
そこにあるのは、人間の論理だけだ。
自然自体は、その法則とはなんら関係がない。
だから、例えば明日もまた太陽が昇るかどうかということは、自然の法則に沿うからではなく、初めからまったく保証されていないことなのだ。」
自然の法則は、しょせん人の言葉に過ぎない
「自然の変化は、自然の法則に従って起きているのではない。
ただ、そういうふうに私たちの目に見えているだけなのだ。
なぜならば、自然の法則は、しょせん人の言葉に過ぎないからだ。
私たちが自然を観察し、その変化を自分たちに分かりやすく言葉でまとめたものが、自然の法則なのだ。
だから、その法則とはまったく別の法則によって、自然が大きく変化することも、充分にあり得るというわけだ。」と。
これをどう判断するかはあなた次第だが、原則や法則といったものを一度疑ってみることをお勧めする。
また、常識に関しても同じことが言えるだろう。
もちろん、モラルに反するようなことはしないことを前提としての話だ。
法則・原則とは、私たちが力を認めている人が断言したものに過ぎない。
そもそも法則や原則はもともとあったものではなく、人間が作ったものだ。
ではいったい誰がつくったのだろうか。
それを原則とすると都合のいい人たちではないだろうか。
現実には、そのようなものはなく、個々の世界観(解釈)によってすべてが構成されいるはず。
したがって、個々の解釈と誰かが勝手につくったものとの間に当然摩擦が生じる。
しかし、最終的には力のあるもに従わざるを得ないので、そこで自己の意志を捻じ曲げざるを得ない。
そこで原則や法則だから仕方ない、と、無理やり自分を納得させる。
それが常識だからということで自己を慰めているのだ。
つまり、法則とか原則は、私たちが力を認めている人が断言するもののことだ。
私の所属していた公立中学校の校則の中に、男子の襟足(髪の毛)は制服(詰め襟)にかかってはいけないと言うものがあった。
つまり、襟足は刈り上げなければならないことになる。
どうせなら、自分独自の法則を創造しよう。
中にはこれに対抗してアイパーをかけたり、リーゼントスタイルでヒサシを伸ばしている生徒たちがいた。
もちろん、襟足はきれいだった。
校則でパーマは禁止されているが、アイパーやリーゼントは禁止されてない、襟足も制服にかかってない、文句あるか!
つまり、彼らもまた自分たちなりの原則を作っていたのだろう。
校則からちょっとはみ出した感じのツッパリの法則にしたがって、ルールを構成していた。
ツッパリの法則がある限り、彼らにとってはツッパリが正当なスタイルであり、それが固定点となって彼らを擁護してくれる。
仲間が増えれば、更にその原則が正しいのだという認識が強まり、またその数の力に思考を揺さぶられ、ただ所属欲求を満たせればいいと言ったメンバーも出始める。
その裾野は更に拡がり続け、ついにはそのスタイルに憧れを懐くものさえ出現して、やがてその原則に多くの人が巻き込まれていくことになる。
つまり、法則・原則をプランニングすることができれば、多くの人を魅了する事ができるのだ。
どんなに破天荒に視えても所詮、長く守られてきた原則・法則の支配下にある
しかし、反骨精神が旺盛な彼らでさえも、校則というものを原形にして、その輪郭を変えていたに過ぎない。
ものごとを根底からアンチ・テーゼできていたわけではない。
成人式などで騒いでいる彼らもまた、原則(ルール)があるからこそ、それを的にして抗えるのだ。
したがって、所詮彼らもまた一定のルールの中で游がされながら反骨精神を露わにしているに過ぎない。
つまり、長い期間守られてきた原則・法則(社会公理)の影響から、どこまでいっても逃れることはできない。
その根底にあるのは善悪の感情だろう。
つまり原則・法則は善であり、それを守らないものは悪という解釈に基いて行動している。
したがって、悪を犯す覚悟がないと、そこから逃れることはできないだろう。
しかし、社会的にはそれはやってはいけないことであり、悪のレッテルを張られたくないので、そうした行動を普通は選択しない。
選択すれば罰せられることがわかっているからだ。
つまり、自分の命が脅かされ、名誉が汚されるといった恐怖感によって抑制されているところが大きい。
一方、そうしたスリルを味わってみたいといった欲求も人間にはある。
道を踏み外してみたいのだ。
したがって、犯罪者は別として、あくまでも社会公理の範囲内で脱線してみせる人間が後を絶たない。
因果に法則はない!?
この善悪に連動した法則に因果の法則と言われているものがある。
この考え方が、私たちのセルフイメージを支配しているパターンは非常に多い。
親から、そしてまた義務教育においてもそう刷り込まれてきたからだ。
悪いことをすれば必ず悪い結果が待っている、善い行いをすれば必ず良い結果が伴う。と、
では、因果の法則とは一体なんだろうか?
そのようなものが本当にあるのだろうか?
結論から言おう、すくなくとも現世というスパンにおいて因果の法則はない。
原因が同じだからといって、同じ結果になるとは限らない。
少なくとも善い行いが必ず報われるといった保障はどこにもない。
それは誰しもが理解していることだろう。
世間の人々がしばしば話題にして、その存在が当然であるかのように信じられている「因果応報(原因と結果)」の法則というものは存在しない。
ただ、いつも自然の法則が貫かれているだけだ。
あるいはまた、一般的に「因果」というならば、それは物理学や力学の法則のことだ。
そこで貫かれているのは、非情な論理だけだ。
あるいは、こうも言い換えられる。
事実の起こり方が、人が考えてひねり出した物理的因果の法則に当てはまっているだけだ、と。
-ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
因縁果報から切り取った虚(きょ)
「因果の法則」というものは、仏教思想の因縁果報(いんねんかほう)というものの一部を誰かが勝手に切り取って作った偽りのロジックだ。
因縁果報をごく簡単に説明すれば、同じ原因でも縁するものによって結果は異なり、その結果の報いが遅れて表れるといったことだ。
そしてまた、その結果も報いも原因と成りえる。
例えば、私は昔からオートバイが好きで、長年ハーレーライフを満喫していた。
しかし、背中の激痛が原因で7年程前にオートバイに乗るのをやめた。
その痛みの元は、その3年前、つまり10年前に起きた交通事故だ。
事故の瞬間に1メートル程飛ばされはしたが、一瞬呼吸ができなくなったくらいで、当時は何の痛みもなかった。
だから、まさかそれが3年後に激痛となって自分のライフスタイルを変える原因になるなど夢にも思わなかった。
私めがけて突っ込んできた彼は、その1年前に知り合ったばかりの人だった。
彼が私のすぐ後ろを走っていなければ、そんなことも起きなかっただろう。
その前に彼と知り合わなければ、一緒に走ることもなかったろう。
今も仲間とハレーライフを満喫していたに違いない。
そして、その事故を境に彼は私の前から消えた。
そのことが原因で新たなビジネスをスタートさせることができたので、結果的には良かったも知れない。
しかし、そうでもないのかもしれない。
今は快調だが、数年後にはそのビジネスが増えたことが原因で、健康を害して入院しているかもしれない。
資金繰りに行き詰まって破綻しているかもしれない。
だから、数年後になってみないと本当のところはわからない。
おそらく「人間万事塞翁が馬」ということなのだろう。
「良縁」をプランニングする
原因も結果も結局は自分が生み出したものだ。
そして、その結果を変えるのは自分の力によってではない。
人やモノやコトとの縁によってでしか結果は変わらない。
繰り返しになるが、縁によって現象が異なってくるからだ。
その縁する人やモノによって抱く感情も異るからだ。
あなたも経験があるだろう。
この人といると何だか楽しくなるけど、あの人といると何だかムカついてくる。
つまり、しっかりプランニングしなければならないのは「縁」。
素晴らしい人との出会いや人生を変えるきっかけとなるような出会いをプランニングすべきだ。
それは偶然には訪れない。
つまり、そうした人やモノ、あるいはコトと出会えるような仕組みを意図的に創造しない限り結果は変わらない。
ものごとは偶然には起こらないからだ。
必然的にしか起こらないからだ。
お金の算段や旅行計画、仕事を企画したりはするが、素晴らしい「縁」を得る仕組みを創造しようとしない。
結果のすべてが変わるというのに軽視して怠る。
計画をたてるのはとても楽しく、快感をともなう。長期の旅行の計画を立てたり、自分の気にいるような家を想像したり、成功する仕事の計画を綿密に立てたり、人生の計画をたてたり、どれもこれもわくわくするし、夢や希望に満ちた作業だ。
しかし、楽しい計画づくりだけで人生は終始するわけではない。
生きていく以上は、その計画を実行しなければならないのだ。
そうでなければ、誰かの計画を実行するための手伝いをさせられることになる。
そして、計画が実行される段階になると、さまざまな障碍、つまずき、忿懣、幻滅などが現れてくる。
それを一つづつ克服していくか、途中で諦めるしかない。
では、どうすればいいのか。
実行しながら、計画を練り直していけばいいのだ。
こうすれば、楽しみながら計画を実現していける。
これはニーチェの言葉の和訳だが、ニーチェが言うように、計画が実行される段階になると、さまざまな障碍、つまずき、忿懣、幻滅などが現れてくる。
それを一つづつ克服していくか、途中で諦めるしかない。
途中で諦めるくなら最初から実行しないほうがいいのかも知れない。
でも、障碍、つまずき、忿懣、幻滅に向き合い、計画を練り直し、それらを克服できた時、そこには必ず「縁」の存在があるはずだ。
さいごに
衝撃的なニュースを知るといつも思うことがある。
戦争とテロ行為の違いはなんだろうか。
戦争は国際法上、国の権利として認められている、ある意味合法的な行為であり、テロは特定の目的のために行う反社会的行為だ。
もちろん、テロと戦争を同じカテゴリーで括るつもりは毛頭ないが、一定領域のあらゆる生命を奪ってしまう行為には変わりがない。
その善悪の線引きはやはり誰かが作ったルールに基づいている。
原則や法則の比喩として、戦争とテロを引き合いに出すのは、些か行き過ぎかもしれない。
しかし、法を犯さなければ何をやってもいいということにはならない。
そこに法則や原則があろうとなかろうと良心を忘れてはいけない。
そして、実際そうした考え方や行動は、縁するものによって大きく異なってくる。
ではまた。