実証性と公共性を基礎にした経験主義からすれば、客観的に観察できる事象だけが科学的心理学の対象となり得るとするのは当然のことだろう。
だから、行動主義からしてみれば、認知を心理学の対象することは昔に逆戻りしたことになり科学的心理学ではない。
これは、スキナーをはじめ、多くの心理学者の見解だ。
これは、意識・感情・認知などが、そのような方法ではとらえ難いところに問題がある。
例えば、人が自分の心を内省または内観して、それを言語で報告するというものだ。
意識内容や高など精神過程を研究する場合にまずこの方法がとられた。
しかし、すでに再三指摘されているように以下のような問題がある。
- 報告する人の記憶にもとづく時間的変容をうけ、解釈による主観性が入っている。
- もとの経験も個人的なものであり、再現性はなく,、したがって公共性はない。
- それを数量的に測定することは、かなり複雑な操作を必要としている。
もちろん、言語報告は意識と行動とを橋渡しするもっとも重要なものだ。
しかし、報告された内容がそのまま意識や認知を複写したものであるとするには無理がある。
心理学と反応時間
では、その人の精神的な過程を表すもっと単純で客観的な指標はないだろうか。
それはパフォーマンスが開始されるまでの時間だ。
これはもともと反応時間の研究から発展したものだ。
反応時間は最初から必ずしも精神過程を表すものとして研究されたのではなかった。
19世紀初頭に、ベッセルは、反応時間の個人差を産出する個人方程式(persond equadon)とよばれるものをたてた。
だがこれは、はっきりとなんらかの心理過程と対応させたものではなかった。
その後19世紀後半に反応時間を用いて研究が進んだが、それは生理学的なものが多かった。
その中にあって、ドンデルス(Donders,1868)は、減算法を考案した。
減算法とは、条件間の減算で心的処理に要する時間を推定する方法だ。
選択反応時間から弁別反応時間を引いた差は、反応の選択の心的処理に要した時間と考えられる。
選択反応時間とは、例えば、緑光か赤光が提示され、緑なら右、赤なら左のボタンをできるだけ速く押す時間
のことだ。
弁別反応時間とは、例えば、緑光か赤光が提示され、緑ならボタンを押し、赤なら何もしない。つまり、反応するかしないかを判断する時間
のことだ。
その減算法では、高など精神過程について仮説的なモデルがたてられ、実験条件とそれが対置されて部分的な精神過程を把握できるという考え方がある。
これは、単に生理的な神経伝達速度ではなく、心理的な過程を反応時間を通してみるという方法だ。
しかし、この頃は反応時間を測定する器具の精度がよくなかった。
したがって、この方法に批判が起こりはじめ、実験心理学の中ではしだいに用いられなくなった。
しかし、コンピュータの進歩などによって測定値の多次元的な分析も可能になったこともあり、反応時間は、再び実験心理学のなかで用いられるようになった。
記憶の領域では、スターンバーグ(Sternberg,1966)が短期記憶における検索時間を研究し、見事な実験結果を発表して以来、再び信頼できる研究方法として多くの研究においても用いられるようになった。
知能と速度
知能とはなにか?
それは、ここで展開して論じきれるものではない。
その定義自体が、心理学のなかでもっとも困難な概念だからだ。
一つには「知能とは知能検査で測定したものである」というような操作主義的な定義の根拠にもなっている。
その知能検査では、素質的な認知構造を測定しようとしている。
その検査の仕方は、数種類のいろいろな下位検査を組み合わせて、知能を測定するようになっている。
したがって、下位検査にそれぞれ解答時間が割り当てられていて、その時間以内にできた正答の数でもって採点がなされている。
つまり、速く多く解答したものほど得点が高くなるようになっているわけだ。
別の言い方をすれば、この検査では、問題を解く速度のこと知能といっている。
ここに大きな疑問が生じてくる。
実際の知能検査では、そうした解答速度の影響が出ないように配慮もされているが、中には単語産出の流暢性(りゅうちょうせい)検査や記号抹消検査のように解答速度をみているものもある。
流暢性とは、主に言語情報を適切に、素早く、数多く処理し出力する能力・特性のことだ。
しかも、この単語流暢性や知覚の速度は、知能の重要な因子であることが実証的に確かめられている。
例えば、サーストンの理論では、言語・理解・数・空間視・記憶・推理とならんで七つの基本的因子の中に言語流暢性の因子がある。
また、ギルフォードの理論では、単語産出の流暢性は拡散的知能・記号の同定抹消における知覚速度は、評価の知能の因子に含まれている。
単語を速く産出することも、同一の記号を見つけて抹消していくこともパフォーマンスだ。
つまり、パフォーマンスの速度そのものが、知能の一つの側面であることを、知能の研究家たちは認めていることになる。
だが実社会に於いて、頭がよいというタイプには、二通りあることはよく知られている。
頭の回転が速いタイプと, じっくりと考えて独創的な発想を出すタイプがある。
つまり、速度だけで知能を判断するのは、知能の全体像をみていない事になり、実態に即していない。
だから、このような知能検査に対する不信感は昔からあった。
実際の知能検査では、解答速度がもろに得点に響くようなことがないようになってはいる。
しかし、下位検査の種類によっては、パフォーマンスの速度が、知能得点に影響をおよぼすこともありうるだろう。
そもそも、「速度」が知能の一つの側面として考慮されなければならないのなら、あえて速度要因を含んだ検査を下位検査の一部に組入れる必要はないように思える。
むしろ知能要因とは関係のない速度の変動が混入することを避けたい。
そのような要因として考えられるのは、加齢による動作速度の低下だ。
一般的に考えて、年をとれば解答速度も遅くなるだろう。
しかし、加齢による解答速度の低下が、即知能低下と結びつくとは限らないだろう。
研究の方法としては、時間制限をはずして下位検査を施行したときと、制限をいれた場合との得
点の比較が考えられる。
また、年齢と知能との相関をとり、速度に重点をおいた検査と、正確さに重点をおいた検査とを比較するという方法もある。
老年者の場合、測定する検査の速度要因によって、実際の知能水準以下に査定されてしまう可能性はある。
一方、速度制限のないCAVD検査において、すでに負の相関がみられるので,、もちろん加齢による知能低下がないとはいえない。
ギルフォードにとっては、速度を要求することが、正しく測定するためには必要な検査条件の一つだった。
そしてもちろん知能本来の因子構造のなかに、拡散的知能の一つとしての単語産出の流暢性があり、評価因子の一部に知覚速度が含まれていて、知能構造とも結びついている。
サーストンについても、言語産出の速度であらわされる流暢性は知能の七つの主要因子のなかに含まれている。
スピアマン(Spearman,1927)にはじまる精神測定理論的な知能理論では、すべて知能構造のなかの一つとして、あるいは測定の必要条件として速度をみていたことになる。
次回は「知能の高い人は、グローバルなプランニングに時間を使う傾向が強い」です。
ではまた。