
市場はなぜ「効率的」になりきれないのか
効率的市場仮説(EMH)は、「利用可能な情報が速やかに価格へ反映される」という前提を置くことで、資本市場を一つの整ったモデルとして扱えるようにします。
問題は、この前提を“現実そのもの”として読み替えてしまうところにあります。理論は、現実を写す鏡ではなく、現実の輪郭を切り出すための刃物です。刃物は鋭いほど便利ですが、切り出し方を誤ると、肝心の部分が落ちます。
アノマリー、バブル、歪みと呼ばれる現象は、EMHを否定するための「反例集」というより、むしろ“どこで、何が、どの順番で躓くのか”を示す観察記録です。
投資の現場で本当に効いてくるのは、「市場は効率的か、非効率か」という二択の結論ではありません。重要なのは、情報が価格になるまでの過程に、どんな摩擦が入るのかを把握することです。
市場の価格は、情報そのものよりも、情報が解釈され、評価され、売買として実装される過程で決まります。つまり、情報→認識→分析→評価→価格というプロセスのどこかが歪めば、価格も歪みます。
行動ファイナンスは、その歪みが“例外的な事故”ではなく、人間の意思決定構造から自然に生まれることを示そうとします。
「情報が価格に反映される」までの道のりは、一本道ではない
仮に市場が効率的だとするなら、投資家の意思決定は次のように進むと想定されます。まず情報収集(財務、業績、政策、マクロ環境など)を行い、次に解析して価格への影響度を見積もる。
そこから購入・保有・売却を判断し、売買が実行されることで情報が価格に織り込まれる。そして状況変化に応じてモニタリングし、必要なら調整する。
ここには一見、無駄がありません。けれど現実には、各段階に“時間差”と“偏り”が入ります。情報は同時に届きませんし、同じ情報でも同じ意味に解釈されません。
解析の技能や関心の深さ、保有目的や時間軸が違えば、評価は割れます。評価が割れれば、価格への反映は滑らかではなく、段階的になったり、過剰になったり、遅延したりします。
さらに、売買は常に自由に実行できるわけではありません。取引コスト、税、スプレッド、流動性、信用制約、運用ルール、制度的制約が“実装の壁”になります。
たとえば「正しい」と思っても、売買できない、あるいは売買すると不利になる。すると、情報は“ある程度まで”しか価格へ反映されません。
市場が効率的に見える局面があるのは事実ですが、そこには条件が要ります。情報が届く速度、解釈が収束する速度、売買が許容される条件が揃ったときに限り、価格は素早く整います。
逆にいえば、アノマリーや歪みは、どこかの条件が満たされないときに生まれやすい。市場の非効率性は、神秘ではなく、プロセス上の摩擦の結果です。
合理的投資家という前提が崩れると、「認識」が最初に歪む
意思決定プロセスの中でも、最も見落とされやすいのが「認識」です。情報は集めれば揃う、分析は勉強すれば上達する──そう考えがちですが、認識は“能力”というより“条件”に左右されます。
情報が多すぎると、人はまず取捨選択します。その取捨選択は、合理性より先に、注意・疲労・経験・恐怖・期待といった心理条件で決まります。これが制限合理性の現場感です。
あらゆる情報を入手できても、あらゆる情報を処理できない。処理できないとき、人は「分かる形」に単純化します。単純化は便利ですが、誤差の入り口になります。
たとえば、似た数字が並ぶと“同じようなもの”に見えます。次の表は、表面だけを見るとほとんど差がないように見える例です。
| 資産 | 良い結果 | 起こりやすさ | 悪い結果 | 起こりやすさ |
|---|---|---|---|---|
| 株式A | +20% | 50% | -20% | 50% |
| 株式B | +19% | 51% | -19% | 49% |
ここで起きがちなのは、「Bのほうが勝率が高いから良い」といった短絡です。
けれど、分布の形、下振れ局面での相関、流動性、ニュースの出方、保有期間に応じた不利など、実務の重要点は表に出ません。
人は“見える数字”をアンカーにし、“見えない条件”を捨てます。さらに過去の成功体験があると、同じ単純化が強化されます。
「このやり方でうまくいった」という記憶は、状況が変わったときほど危険です。市場は変わるのに、認識の型は変わりにくい。ここが、合理性の限界が最初に表れる地点です。
行動ファイナンスが示すのは、非合理の“性格”ではなく“構造”
行動ファイナンスは「人は非合理である」と言って終わる学問ではありません。焦点は、非合理が“いつ・どこで・どういう方向に”出やすいかという構造です。
代表性(過去のパターンを未来に投影する)、アンカリング(最初に見た数字に引きずられる)、確証バイアス(都合の良い情報だけ集める)、損失回避(損を確定したくない)、過度の自信(当てられる気がする)──これらは性格の問題に見えますが、実際は環境要因で増幅します。
短時間で判断を迫られる、情報が断片的に流れてくる、周囲の意見が強い、含み損益が可視化され続ける。こうした条件下では、誰でも偏りやすい。
そして市場は、偏りを“平均化”するだけでなく、ときに“共振”させます。群集心理が働くと、同じ方向の解釈が増え、価格が過剰に動きます。
逆に恐怖が強い局面では、リスク回避が連鎖し、売りが売りを呼びます。
ここで重要なのは、非合理が常に損になるわけではない、という点です。短期的には非合理が利益に見えることもあります。だからこそ厄介です。
「今回はうまくいった」という経験が、次の局面で同じ行動を正当化します。しかし、市場が同じ局面を繰り返す保証はありません。
行動ファイナンスは、勝敗の物語を語るためではなく、意思決定が歪む仕組みを可視化し、“再現性のない成功”に引きずられないための視点を与えます。
非合理を前提にするなら、必要なのは「正しさ」より「運用設計」
市場の非効率性を利用できる可能性がある──この一文は魅力的ですが、同時に落とし穴でもあります。非効率は“利益の源泉”になり得る一方で、“損失の源泉”でもあるからです。
非効率を狙うとは、情報差・解釈差・行動差のどれかで優位を取るという宣言です。宣言するなら、優位が崩れたときの損失設計まで含めて初めて戦略になります。
ここで効いてくるのが、意思決定プロセスの自覚です。情報→認識→分析→評価→価格のどこが弱いのかを点検し、弱い部分を「努力」ではなく「仕組み」で補う。これが運用設計の発想です。
具体策は派手である必要はありません。むしろ地味なほうが効きます。
たとえば、①情報の入口を絞る(追う指標・媒体・頻度を決める)、②判断を分割する(即断しないルール、確認項目、時間を置く手順)、③損失を“行動”ではなく“条件”で決める(損切り・縮小・ヘッジの発動条件を事前に定義する)、④意思決定ログを残す(理由・前提・想定シナリオ・撤退条件を書き、後で検証する)。
これらは一見、当たり前です。しかし当たり前が機能するのは、当たり前を“守れる環境”があるときだけです。環境がなければ、判断は気分に回収されます。
非合理を前提にするとは、気合で合理的になろうとすることではなく、非合理が出ても致命傷にならない構造をつくることです。
まとめ――市場の効率より先に、「意思決定の効率」を問い直す
EMHが提示するのは、情報が価格へ反映されるという整った見取り図です。
一方、現実の市場は、情報の非対称性、解釈の分岐、取引コスト、制度、心理といった摩擦を抱えています。その摩擦が、アノマリーや歪みとして観測される。だから市場は“完全に効率的ではない”。
ただし、ここから直ちに「非効率を狙えば儲かる」と結論づけるのも危険です。非効率には、利益の可能性と同じだけ、失敗の可能性が含まれます。
重要なのは、非効率を語る前に、意思決定プロセスを自覚し、どの段階が歪みやすいかを把握することです。
結局、問うべきは「市場は効率的か」ではなく、「意思決定はどこで歪み、どう補うか」です。
情報を集めるだけでは不十分で、認識の歪みを点検し、分析の前提を明確にし、評価の基準を固定し、価格という結果に対してモニタリングと調整を行う。その一連を“運用として回す”ことで、初めて理論は現実の中で意味を持ちます。
市場が完璧でないなら、なおさら、意思決定の側に設計が必要になります。そこにこそ、行動ファイナンスを学ぶ実益があります。



