
アルカリイオン水で体調を崩した日
数ヶ月前、ある会社の勧めをきっかけに、アルカリイオン水を生成できる浄水器を購入しました。
目的はシンプルでした。体の「酸化」を防ぐ助けになるのではないか、と思ったのです。
ところが、3カ月ほど使い続けるうちに体調が崩れ、病院では胃酸過多で胃壁が荒れているという診断を受けました。
その瞬間に浮かんだ問いは、ひとつ。
「なぜ、こうなったのか?」
結論から言うと、原因は“神秘”ではなく、もっと地味なところにありました。
前提が間違っていた。
ただそれだけで、選択が、身体の反応と噛み合わなくなっていたのです。
免責事項(医療情報・体調管理について)
- 本記事は医療行為・診断・治療を目的としたものではありません。
- 症状がある場合や治療中の方は、医師等の専門家に相談してください。
- 本文は筆者の体験と解釈を含みます。同じ方法が同じ結果をもたらすとは限りません。
- 「量子」等の語は、治療効果の断定ではなく、ものの見方を整理する比喩として扱う箇所があります。
「酸性体質をアルカリ性にする」──魅力的だが、身体の設計とは噛み合いにくい
当時の私は、「体の酸化を防ぐ」という目的に対して、
「アルカリ性の水を飲む」という行動が直結しているように感じていました。
けれど、今振り返ると、ここにズレがありました。
そもそも私たちの体液は、恒常性によって非常に狭い範囲にコントロールされています。
「酸性体質だからアルカリ化する」という説明は、言葉としては分かりやすいのですが、
生活者にとって扱うには“強すぎる説明”だったのかもしれません。
なぜなら、身体は「単純な足し算」で動いていないからです。
胃は強い酸の世界──そこに“アルカリの大量投入”が入るとどうなるか
胃液は強い酸性です。
つまり、口に入れたものは、そのままの性質で腸へ運ばれるわけではありません。
この基本を知らないまま、私は「アルカリ水=体に良い」という物語に乗ってしまいました。
そして、ここで私自身の癖も出ます。
新しいことに対して、極端に取り組む傾向がある。
結果として、アルカリイオン水を「ほどほど」ではなく、「大量に」飲むようになり、
体はその入力に応じて反応し、私は胃酸過多に傾きました。
この出来事が教えてくれたのは、
「良い/悪い」ではなく、
入力(選択)と反応(身体)が噛み合っているかという一点でした。
体調を崩した本当の原因は「水」だったのか──“単独犯”を作る誘惑
ここで、もう一段だけ慎重になりたいと思います。
人は体調を崩すと、原因をひとつに確定させたくなる。
もちろん、アルカリイオン水の大量摂取が引き金になった可能性は否定できません。
ただ、身体の出来事は多くの場合、単独犯ではなく、
複数の条件が重なって表面化します。
- 生活リズム(睡眠や食事のタイミング)
- 仕事の密度
- ストレス
- 「これは良いはずだ」という期待
- そして、極端な実践
“水だけが悪い”と決めると、学びは浅くなる。
“前提がズレた状態で、実践が極端になった”と捉えると、学びは生活へ戻ってくる。
私にとって価値があったのは後者でした。
健康情報は「強い説明」ほど危うい──確信が観察を止める
今回の経験で痛感したのは、健康領域における“強い説明”の危うさです。
強い説明は、安心を与えます。
そして安心は、ときに観察を止めます。
- 体調の揺れを見なくなる
- 合わない結果を「努力不足」に回収してしまう
- 調整の余地を失う(やるか、やらないかの二択になる)
この構造が起きた瞬間、健康は「生活の設計」ではなく、「物語の正しさ」になっていきます。
私は、まさにそこに落ちました。
「常識」を疑うことと、「何でもあり」に落ちることは違う
この経験のあと、医学や健康の「常識」を鵜呑みにしない姿勢の大切さも感じるようになりました。
ただし、ここで気をつけたいことがあります。
常識を疑うことは、否定の姿勢とは違う。
むしろ、常識を手放したぶんだけ、観察の精度と、検証の態度が必要になります。
たとえば「動脈硬化は戻らない」といった定説に触れたとき、
それを否定して別の“正しさ”に乗り換えるのではなく、こう扱う。
- いまの科学が、どこまで言えるのか(どこから先は未確定なのか)
- 生活の介入で、何が変わり得るのか(変わりやすい領域/変わりにくい領域)
- 自分の条件(体質・病歴・生活)で、どう確かめるのか(手順と期限と安全域)
疑うとは、無責任に信じ替えることではなく、
手順を丁寧にすることだと思います。
そしてここで、もう一つだけ注意点があります。
常識を疑う局面ほど、私たちは「強い説明」を欲しがちです。
一気に世界が分かった気になる言葉──つまり、万能の鍵です。
けれど万能の鍵は、たいてい観察を止めます。
だから、常識から自由になるほど、逆に「強い説明」を疑う必要が出てくる。
この次の話は、その典型例です。
「量子」の話を、証明にしない──複雑さを思い出すための比喩として
「量子」という言葉が出た瞬間、読者は二つに割れやすくなります。
信じる側は希望を乗せ、否定する側はページを閉じる。
でも、ここまでの文脈で大事なのは、信じるか否かではありません。
「常識を疑うなら、手順を丁寧にする」──そのルールを、ここでも守ることです。
だから私は、量子をこう置きます。
- 量子を治療の証明にしない。
- 量子は、身体が単純な足し算ではないことを思い出すための比喩として置く。
この置き方なら、量子は“敵”にも“味方”にもなりません。
むしろ、こちらを生活の側へ戻します。
結論を急がない/単独犯を作らない/条件をそろえて試す──その姿勢へ。
結局のところ、私が今回学んだのも、派手な理論ではなく、
前提→選択→反応→微調整という地味な循環でした。
量子という言葉は、その循環を壊すためではなく、守るために置く。
ここが、この章の落としどころです。
結び:健康とは「正しい物語」を持つことではなく、「戻れる道」を増やすこと
アルカリイオン水の件で、私は痛い目を見ました。
でも、その痛みは、生活を柔らかくする学びにもなりました。
それは「何が正しいか」を決める学びではありません。
自分の前提がズレたときに、戻れる道を増やす学びです。
- 強い説明に飛びつく前に、前提を疑う
- 極端に走りそうな自分を、条件で抑える
- 体の反応を、敵視せず、センサーとして読む
- 合わなければ戻す(失敗ではなくデータ)
最後に問いを置きます。
- あなたが「健康のため」に採用している前提は、誰の言葉を借りていますか?
- その前提は、あなたの体の反応と噛み合っていますか?
- もしズレていたら、戻る道は用意されていますか?
健康とは、強い方法を持つことではなく、
本来の起点に戻るための道を増やすことなのかもしれません。

