はじめに:エビデンスは“正義”なのか?
現代の専門家は、しばしば「それにはエビデンスがあるのか?」という問いを最初に投げかけます。一見すると理知的な姿勢に見えますが、そこには思考停止と権威依存の危うさが潜んでいます。本章では、専門家が無意識に陥りがちな「エビデンスの罠」を3つ取り上げ、なぜそれが問題なのかを掘り下げます。
罠①:思考停止としての「エビデンス主義」
専門家が「エビデンスがある/ない」で思考を区切ってしまうと、それ以上の検討が行われなくなります。仮説の創出、観察、直感、現場感覚といった重要な情報源が軽視され、「論文に載っていないものは存在しない」という極端な認知に陥ります。
本来、専門家の仕事とは「わからないこと」に向き合い、仮説を立て、未踏領域に踏み込むことです。しかし、エビデンス主義に依存すると、「安全地帯から出ない」専門性へと後退します。
罠②:数値信仰と「平均的人間」の幻想
エビデンスに含まれる多くのデータは、統計処理によって「平均化」されています。たとえば、薬の効果が「平均して有意だった」としても、その中には効果がなかった人、むしろ害になった人もいます。
「エビデンス通りにやっているのにうまくいかない」というケースに対し、「患者の側に問題がある」と解釈してしまう専門家も少なくありません。ここに、「数値=正解」という誤謬が潜んでいます。
罠③:「責任回避の盾」としてのエビデンス
エビデンスを拠り所とすることが、専門家にとって「責任回避」の道具になってしまうことがあります。たとえば、「ガイドラインに沿って処方しました」「論文通りに対応しました」という言葉は、万一問題が起きたときの“予防線”として機能します。
本来は個別判断が必要な局面でも、エビデンスが「免罪符」のように使われてしまえば、専門性は形式だけのものになります。これは「科学的態度」の名の下に行われる、知的怠慢とも言えるでしょう。
まとめ:エビデンスは「思考の出発点」でしかない
エビデンスは大切です。しかし、それはあくまで判断の「材料」であり、「結論」ではありません。専門家であるなら、そこから何を読み取り、どこまでを自分の責任で引き受けるかが問われます。
真に成熟した専門性とは、エビデンスを盲信せず、それを超えて「人間を扱う知」を育てる姿勢にあるはずです。