はじめに:「情報の解釈」が人間を作る
「エビデンスがあるから正しい」とは、実は極めて単純化された物の見方です。認知科学の知見を踏まえると、人間は常に“情報の解釈”によって現実を構築しており、その解釈は文脈・目的・感情・信念といったさまざまな要因に左右されています。
つまり、どれほど厳密なデータが存在しても、それをどう読むかは「人間次第」なのです。本章では、エビデンスに対する認知科学的アプローチを通して、“データ盲信”がいかに危ういかを論じます。
「観る者」が意味を与える
認知科学では「意味は外界にあるのではなく、観察者が構成する」とされます。これは、いわゆる「構成主義」の立場に近い考えです。脳は常に、断片的な情報を文脈に基づいて“意味あるもの”として再構成しています。
同じ統計データでも、楽観的に解釈する者もいれば、危機感を抱く者もいるのはこのためです。つまり、エビデンスに“正しい読み方”が一つあるわけではなく、その解釈には主観と前提が介入するのです。
「仮説→検証→再構成」の動的な思考プロセス
エビデンスを扱うとは、「仮説→検証→再構成」というプロセスの一部にすぎません。しかし現実には、仮説すら立てず、検証もせず、「既に出された結論(=論文)」だけを使おうとする風潮があります。
認知科学的視点では、人間の思考はフィードバックの中で修正・進化していくものです。固定化された知識よりも、柔軟な思考と仮説形成力が重要視されます。つまり、「論文を読む力」よりも「問いを立てる力」こそが専門家に求められるべきなのです。
「エビデンスに意味を与えるのは誰か」
ある介入が「効果あり」とされたとしても、それが実際にどのように機能し、誰にどのような影響を与えるかは、エビデンスの外側にあります。認知科学の文脈では、「人間の意識と環境との相互作用」が強調されるため、静的なデータだけでは全体像をつかめません。
エビデンスは“生きた現場”に運ばれて初めて意味を持ちます。言い換えれば、専門家とは「エビデンスを現場に適用する翻訳者」であり、かつそれに責任を持つ存在です。
まとめ:認知科学は“問いの力”を重視する
認知科学の視点からすれば、エビデンスとは「答え」ではなく「問いの出発点」にすぎません。どのような問いを立てるか、何を前提とするかが、解釈を根本から変えてしまうのです。
だからこそ、私たちはエビデンスに対しても、自分自身の認知バイアスや思考のクセに自覚的であるべきでしょう。専門性とは、“問うことをやめない態度”のなかにこそ育まれるのです。