
退職後の空白を抜けるきっかけは、求人誌の中にありました。
保険代理店研修生募集。
その文字に目が留まりました。
給料が悪くなかったことも、もちろん大きかったと思います。預金は減り、家族にも両親にも、いつまでもごまかし続けることはできませんでした。生活を立て直すためには、まず収入の道をつくらなければならない。
ただ、それだけではなかった気がします。
義母が倒れ、日本で長く入院していた時期がありました。
そのとき、保険や保障という仕組みが、人の生活をどれほど支えるものなのかを、私は嫌というほど知りました。
それ以前の私は、保険というものにあまりよい印象を持っていませんでした。
結婚する前は、保険はどこか詐欺に近いものではないかとさえ思っていました。保険を販売する人に対しても、どこかペテン師のような印象を持っていた時期があります。
今思えば、かなり乱暴な見方です。
けれど、当時の自分にとって保険は、仕組みが見えにくく、売り方にも不信感を持ちやすいものでした。
その見方が少し変わったのは、子どもが生まれてからです。
自分に何かあったら、家族はどうなるのか。
子どもが小さい時期に、収入が途絶えたらどうなるのか。
そのように考えると、保険の必要性には納得できるようになりました。
それでも、まだ強い意義を感じていたわけではありません。
保険は、生活を成り立たせるうえで必要な仕組みではある。
不安を軽減するツールの一つでもある。
ただ、職業として見たときには、どこか評価の低い仕事のようにも感じていた。
そんな私が、保険の仕事に向かおうとしていたのです。
それは、収入のためだけではなく、自分が経験してきた生活の不安と、どこかでつながっていたのだと思います。
応募条件に合っていないまま、本社へ電話した
求人誌をよく見ると、応募条件には「大卒以上」とありました。
私は、その条件に該当しません。
普通に考えれば、ここで終わりです。
条件に合わない。
だから応募できない。
そう判断しても不自然ではありません。
けれど、そのときの私は、なぜかそこで止まりませんでした。
無謀だと思いながらも、東京海上の本社へ電話をしました。
電話では、大卒ではないことも伝えました。
電話口の人は、戸惑っていたと思います。
募集要項に合わない人間から、いきなり本社に電話が入るのですから、対応に困ったとしても当然です。
ただ、完全に断るような感じではなかったのだと思います。
その後、何らかの形で取り計らってくれたのでしょう。該当する支社から連絡が入り、西東京支社で面接を受けることになりました。
なぜ、あのとき電話できたのか。
今振り返ると、アパレル時代の経験が大きかったのだと思います。
取引先を開拓することは、当時から必要でした。
仕入れ先を探し、条件を交渉し、お願いし、時には無理も聞いてもらう。
そうしたことを繰り返してきました。
ネゴシエーションも、自分では得意だと思い込んでいた部分があります。
何より、打診してみると、意外と局面が変わることがある。
この経験を、何度もしていました。
閉じているように見える扉でも、声をかけてみると、少しだけ開くことがある。
条件に合っていないからといって、何もせずに終わらせるより、まず打診してみる。
その感覚が、あの電話をかけさせたのだと思います。
空白の期間、仕事を探そうとしても身体が動かなかった私が、そのときだけは動いた。
それは、再始動の最初の小さな動きでした。
支社での面接と、拾ってくれた人
面接は、支社で行われました。
支社長は、ジェントルマンという印象の方でした。
支社の社員の方々も、落ち着いた印象の人が多かったように思います。
もちろん、後に関わることになる上位の責任者には、また別の厳しさがありました。
けれど、少なくとも支社長は、条件に合わない私をただ入り口で切るのではなく、話を聞いてくれた人でした。
採用されたあと、ずっと後になって、その裏側を知ることになります。
独立に向かう最終段階の面談で、上位の責任者から言われました。
私の作文は、誤字脱字だらけだったそうです。
文字も、酔って書いたのではないかと思われるほどだったらしい。
営業力があっても、最終的な資格試験に受からなければ独立できない。
そういう研修生を多く見てきた立場からすると、私を採用することには不安があったのでしょう。
だから本来は、不合格にすべきだと支社長に伝えたそうです。
それでも、支社長が強く推薦してくれた。
その結果、私は採用されました。
後に、その同じ責任者から、「支店ですべてトップになるとは思わなかった。しかも日本一になるとは驚いた」と言われることになります。
また、優績者の表彰の場で、ある上席の方から、私の作文について触れられたこともありました。
誤字脱字だらけで、文字もひどい。
それでも、これまでで一番感動した作文だった。
そんなふうに言われ、場内が微笑みに包まれたことを覚えています。
この話を、成果自慢として書きたいわけではありません。
むしろ、ここで大切なのは、人が人を見るとき、条件や整った書類だけでは測れないものがあるということです。
支社長は、私の中に何かを見てくれたのだと思います。
それが何だったのか、正確にはわかりません。
ただ、あのとき拾ってもらえなければ、私は保険の世界に入ることはなかったでしょう。
空白から外へ出る入口には、こちらの無謀な電話だけではなく、それを受け止めてくれた人の判断もありました。
採用が決まっても、不安は消えなかった
面接の後は、当然、合否が気になっていました。
預金はほとんどありません。
生活をどう立て直すかは、切実な問題でした。
車やバイクを売却することは、できれば避けたかった。
それを手放したら、本当に自分が惨めになってしまうような気がしていたのです。
もちろん、生活のためには、いずれ現実的な判断をしなければならない局面もあったでしょう。
けれど、そのときの私にとって、それらは単なる所有物ではありませんでした。
会社を辞め、仕事もなく、家族にも両親にも説明しきれない状態の中で、最後に自分の中に残っていたものでもあったのだと思います。
だから、採用が決まったときには、安堵がありました。
同時に、不安もありました。
やるしかない。
けれど、本当にやれるのか。
久しぶりに社会へ戻る怖さもありました。
家族に報告できる安心感もありました。
両親に、ようやく説明できるという感覚もありました。
退職後の空白は、ここでようやく一つの区切りを迎えます。
ただし、採用されたことは、安心の終わりではありません。
そこから始まったのは、また別の意味で緊張感のある現場でした。
保険代理店研修生という、厳しい仕組み
私が所属した研修センターには、最初十五人ほどの研修生がいました。
二か月後、本研修へ移行した時点では、十二人ほどになっていたと思います。
本研修では、同じセクターの総合研修だけでも二百五十人ほどが集まっていました。
全同期を合わせれば、おそらく千人以上いたのではないかと思います。
年齢層は、新卒から四十五歳くらいまで。
私は三十七歳でした。
そこには、多くの代理店の卵たちがいました。
ただ、その場は決して穏やかな場所ではありませんでした。
毎月、人が減っていきます。
増えることはありません。
売上の基準をクリアできなければ、切られる。
資格試験をクリアできなければ、切られる。
その両方を満たさなければ、独立には進めない。
契約とはいえ、本当にその通りに実行されていました。
明日は我が身。
その感覚と、ずっと同居しなければなりませんでした。
特に印象に残っているのは、いつも私とトップを争っていた人が、最終資格に合格できず独立できなかったことです。
そのとき、私はぞっとしました。
これは本当に実行される仕組みなのだ。
営業成績がよくても、資格が取れなければ終わる。
努力していても、一定の基準に届かなければ残れない。
その現実を、目の前で見たのです。
総合研修のたびに、空席が目立つようになっていきました。
前回一緒に食事をした人がいない。
話をした人が、次にはいない。
それは、寂しい光景でした。
再起の場は、あたたかいだけの場所ではありませんでした。
むしろ、極めて厳しい選別の場でもあったのです。
二百件訪問しても、契約が取れなかった
本研修へ移行したあと、私は二百件ほど訪問しました。
しかし、契約は取れませんでした。
これは、かなり大きな壁でした。
それまで私は、物販の現場で結果を出してきた自負がありました。
商品を見て、売場をつくり、人の動きを見て、販売につなげる。
そういう経験はありました。
営業力もあると思っていました。
けれど、保険は違いました。
目に見える商品を売るのではありません。
約束を、文字と図で表現したものを扱う仕事です。
今ここに形のあるものを渡すわけではない。
将来起こるかもしれない出来事に対して、備えの仕組みを説明し、理解してもらい、信頼してもらう。
難易度がまったく違いました。
二百件訪問しても契約できない。
このままでは一か月で終わるかもしれない。
そう思いました。
物販で培った自信は、一度そこで崩れました。
ところが、一件目の契約が取れたあと、状況は大きく変わります。
その月、私は表彰されることになります。
以降、三年間、毎月表彰されることになりました。
聞けば、いきなり二百件訪問する研修生は、あまりいなかったそうです。
担当してくれていたキーパーソンは、それを見て見ぬふりをしていたのだと後で聞きました。
ひょっとすると何かあるかもしれない。
そう思って見守ってくれていたようです。
私は、この最初の担当者のおかげで優績者になれたと思っています。
毎日のように伴走してくれました。
あの人がいなければ、最初の壁を越えられなかったかもしれません。
再起は、一人で始まるように見えても、実際には必ず誰かの支えがあります。
あの時期の私にとって、その担当者は非常に大きな存在でした。
保険への見方が変わった研修動画
保険という仕事に対する見方が大きく変わったのは、ある研修動画を見たときでした。
そこに登場していたのは、筋ジストロフィーで首から下が完全に麻痺している代理店の方でした。
その方には夢がありました。
身体に障害のある人たちのための施設をつくること。
その規模は、東京ドーム並みだと語っていたと思います。
彼は、介護補償保険の普及にいち早く取り組み、その手数料などをもとに、すでにいくつかの施設を建設していました。
私は、そのスケールに驚きました。
同時に、その信念に心を打たれました。
涙が止まりませんでした。
その場にいた多くの人も、同じように感動していたのではないかと思います。
私の場合、義母の経験が重なりました。
義母が倒れ、長く入院し、生活の中で保障の意味を痛感した経験がありました。
介護や長期療養は、本人だけの問題ではありません。
家族の時間、収入、働き方、暮らしの形まで変えてしまいます。
その現実を、私は身近に見ていました。
だから、その動画は私にとって単なる研修教材ではありませんでした。
保険は、人の不安につけ込んで売るものではない。
人が生きていく過程で避けられない不安に、具体的な形を与えるための仕組みでもある。
そう感じたのです。
この瞬間から、私の中で保険の意味が変わり始めました。
死亡リスクではなく、生存リスクを見る
その後、私は介護補償保険を中心に提案するようになります。
ちょうどその頃、生命保険でも介護に関する商品が出始めていました。
私は、その商品を誰よりも売ったと思います。
ただし、それは単に売れそうな商品を選んだということではありません。
自分の中で、見るべきリスクが変わったのです。
それまで保険営業では、死亡リスクが中心に語られることが多かった。
もし自分が亡くなったら、残された家族はどうなるのか。
もちろん、それは大切なテーマです。
しかし、私が強く感じていたのは、生きているからこそ生じるリスクでした。
病気や障害を抱えながら生きる。
介護が必要になる。
働けない時間が続く。
家族が看病や介護に時間を使わなければならない。
収入が途絶えるだけでなく、支出が増え、家族の暮らしそのものが変わる。
これは、死亡リスクとは違う重さを持っています。
私は、そこに焦点を当てて販売ロジックを組み立てていきました。
今でこそ、生存リスクという言葉はそれほど珍しくないかもしれません。
けれど、当時としては、死亡保障ではなく、生きている時間の不安に焦点を当てて提案することは、かなり特徴的だったと思います。
気がつくと、大きな成果にもつながっていました。
ただ、ここで大切なのは、成果そのものではありません。
保険を売るという仕事が、私の中で変わったことです。
それは、商品を売る仕事ではなくなっていきました。
人がまだ言葉にできていない不安を、生活の中に置き直す仕事になっていったのです。
白紙に描いた図が、無形の不安を見えるものにした
保険の仕事に入って、私は自分が「営業力」というものを誤解していたことに気づきました。
物販で売れることと、保険を信頼してもらうことは、まったく違います。
服であれば、手に取れます。
着てみることができます。
色や素材や形を、その場で確認できます。
けれど、保険は違います。
目に見える商品がありません。
そこにあるのは、約束です。
将来の出来事に対して、どのような条件で、どのような保障が働くのか。
その仕組みを、文字と図で理解してもらわなければならない。
この難しさに直面したとき、私はアパレル時代の「絵型」を思い出しました。
私は以前、現物サンプルではなく、絵型で商いをする効率に魅力を感じていました。
絵型を使えば、現物を大量につくらなくても、完成イメージを共有できます。
受注生産にもつながり、ロスも少ない。
その仕組みを使って、会社の業績を伸ばしていった経験がありました。
保険でも、同じことができるのではないか。
そう考えた私は、当時、白紙の紙に保険の仕組みを描きながら説明するようになりました。
商品のパンフレットをそのまま読み上げるのではなく、相手の状況に合わせて、必要な構造をその場で図にしていく。
収入、家族、病気、介護、働けない期間、必要な保障。
それらを、線や枠や流れとして描いていく。
すると、多くのお客様が、その紙を手元に残したいと言いました。
もちろん、現在であれば、保険募集に使う資料は、会社の承認を受けた正式な資料や設計書、重要事項説明書などとの整合性を前提に扱う必要があります。
その場で描いたものをそのまま募集資料のように渡すことは、慎重に考えなければなりません。
ただ、当時の私にとって大切だったのは、その紙そのものではありませんでした。
お客様が欲しがったのは、私の説明が上手だったからというより、自分の不安が目に見える形になったからだったのだと思います。
人は、漠然とした不安を抱えたままだと、何を判断すればよいかわかりません。
けれど、不安が図になり、条件になり、時間の流れの中に置かれると、少しだけ扱えるものになります。
その紙は、保険商品の説明書ではありませんでした。
その人の暮らしの不安を、一度外に出したものだったのだと思います。
売るのではなく、相手を表現する
保険営業で成果が出始めた頃、私は一つの感覚を持つようになりました。
これは、ネゴシエーションではない。
相手を説得することでもない。
うまく話して納得させることでもない。
ただ、仕組みを淡々と説明する。
そして、相手の導線や心理の揺らぎを見ながら、それを言葉と図に置き換えていく。
相手がどこで不安になるのか。
どこで話が見えなくなるのか。
どの部分に納得し、どの部分で迷うのか。
その揺らぎを見ながら、紙の上に形をつくっていく。
そうしているうちに、私は思うようになりました。
売っているのではない。
相手を表現しているのだ、と。
相手の生活。
相手の不安。
相手の家族。
相手の将来。
相手がまだ自分でも整理できていないもの。
それを、言葉と図にして、相手の前に置く。
そこから、ようやく判断が始まる。
無形の商品を信用してもらうには、商品を強く押すだけでは足りません。
相手が、自分の不安を自分で見られるようにする必要があります。
そのために、私は白紙に図を描いていたのだと思います。
この感覚は、後のFP相談にもつながっていきます。
家計、保険、教育費、老後資金、不動産、事業、家族の事情。
それらは、単独で存在しているわけではありません。
その人の暮らしの中で、複雑につながっています。
だからこそ、まず外に出して、見える形にする。
売ることの前に、不安に形を与える。
保険営業の現場で、私はその入口に立っていたのだと思います。
再起は、過去の経験が別の意味を持つところから始まった
保険代理店研修生としての再始動は、決して楽なものではありませんでした。
厳しい研修制度がありました。
売上と資格の両方をクリアしなければ、残ることはできませんでした。
最初の二百件訪問では契約も取れず、自信は一度崩れました。
それでも、そこで過去の経験が別の形で生き始めました。
アパレルでの売場づくり。
絵型で商いをしていた経験。
仕入れ先との交渉。
家族の病気や入院で知った保障の意味。
事業で味わった資金繰りの痛み。
人を雇い、人を辞めさせ、生活に触れる判断を背負った経験。
それらは、保険の仕事に入るまでは、ばらばらの出来事のように見えていました。
しかし、保険という無形の仕組みを説明する現場で、それらが少しずつつながっていきます。
人は、どこで不安になるのか。
家族の生活は、何によって揺らぐのか。
収入が途絶えるとはどういうことか。
介護が必要になると、暮らしはどう変わるのか。
商品としての保険を見るだけでは、そこは見えません。
生活の中に置いて初めて、保障の意味が見えてきます。
私の再起は、単に新しい仕事に就いたことではありませんでした。
過去の経験が、別の意味を持ち始めたことだったのだと思います。
もちろん、この先には、この成果がまた別の影を落としていく時期もあります。
大きな成果が出れば、生活は変わります。
借金も返せます。
暮らしも楽になります。
けれど、成果が出ることと、自分や家族の状態が整うことは同じではありません。
そのことを、私はこの後、別の形で思い知らされることになります。
それでも、この時期に見つけたものは、今につながる大切な感覚でした。
売ることの前に、見えない不安に形を与える。
その仕事の入口に、私はここで立ったのだと思います。
正解を探す前に、判断の前提を整える。
不安は、見えないままだと扱いにくいものです。
家計、保険、仕事、家族、将来のこと。頭の中で絡まったままにしておくと、何を選べばよいのかが見えにくくなります。大切なのは、まず不安を外に出し、言葉や図にして眺められる形にすることです。
初回整理相談では、40分の対話を通じて、いま抱えている違和感や迷いを整理し、次に何を見ればよいのかを一緒に確認していきます。
家族・事業・住まい・お金が絡み合う判断について
事業、家族、資金繰り、住まい、お金が重なったとき、 判断は単純な損得だけでは整理しきれなくなることがあります。
いま似たような絡み合いを感じている場合は、 まず全体の見取り図をつくることから始められます。

