会社は、一人の決意だけで生まれたわけではなかった──用意された二択を外れて、最初の創業に至るまで

人生の転機は、いつも自分の中で整然と準備されているわけではありません。

あとから振り返れば、そこには流れがあったように見えます。あの出会いがあったから、次の道が開いた。あの問いを投げかけられたから、進路が変わった。あの違和感に気づいたから、環境を変えることになった。

けれど、その渦中にいるときには、そこまで整理できていません。

むしろ、偶然のように見える出会いや、断るつもりだった話、無理のある環境、思いがけない人の一言、そして逃げ場のない責任が重なって、気がつけば次の場所へ押し出されていることがあります。

私にとって、最初の創業はそのようなものでした。

若い頃、「社長になりたい」と口にしたことはありました。けれど、実際に会社をつくることになったとき、それは夢や野心から始まったものではありませんでした。

崩れかけた現場がありました。働く場を失いかけた仲間がいました。品質、資金繰り、信頼関係、責任の境界線が一気に揺らいだ時間がありました。

そして、その中で、周囲の信頼や支援に押し出されるように、会社が形になっていきました。

今回は、その最初の創業に至るまでの流れを、ひとつの区切りとして振り返ってみたいと思います。


大学か就職か、という問いに答えられなかった頃

高校の進路相談で、大学へ行くのか、就職するのかと問われたことがあります。

そのとき私は、その二択にうまく答えることができませんでした。大学へ行く。就職する。もちろん、どちらも現実的な選択肢だったと思います。今になって考えれば、どちらを選んでも、それなりに道はあったのかもしれません。

けれど、当時の自分には、その二つの選択肢がどうしても自分のものとして入ってきませんでした。

そこに行って、何をするのか。

その先に、自分は何を見ているのか。

そう考えると、大学か就職かという問いそのものが、自分には少しずれているように感じていました。

そこで私が返した答えは、「デザイナーになる」というものでした。

親からすれば、不安だったと思います。お願いだから公務員か大学か、どちらかにしてくれと言われた記憶があります。安定した道を望むのは当然です。けれど、当時の私には、その安定した選択肢の中に、自分の行き先を見つけることができませんでした。

結果として、東京デザイナー学院へ進むことになります。

ただ、そこで待っていたのは、夢のような学生生活だけではありませんでした。

私は青梅の方に住んでいて、当時は今のように便利な感覚ではありません。片道にかなり時間がかかり、往復だけで一日の中の大きな時間が消えていきました。学校へ行き、帰宅し、課題に取りかかる。すると夜が明け、また学校へ行く時間になる。

デザインの道を選んだはずなのに、最初に身体で覚えたのは、自由や華やかさではなく、負荷でした。

それでも、その時期は自分にとって大きな意味を持っていました。

課題に追われながら、ファッションの世界に触れ、人と出会い、場の空気を浴びていく。机の上で何かを学ぶだけではなく、身体ごとその世界に入っていくような時間でした。

今の言葉で言えば、この頃からすでに、用意された選択肢にそのまま乗るのではなく、「その先に何があるのか」を見ようとしていたのだと思います。


華やかな場と、後に影を落とす出会い

専門学校時代には、何人かの重要な人物と出会いました。

一つ年上の同級生で、後に私を陰に陽に支えてくれることになる人物。のちに一緒に法人を立ち上げ、専務を務めてもらうことになる人です。

また、通称で呼ばれていた別の友人もいました。彼は後に、私が最初に大きく道を変えるきっかけになる会社との縁をつくってくれます。その後、その会社で一緒に働くことにもなりました。

さらに、三つ年上の同級生で、スタイリストでもあり、遊び人のような雰囲気を持った友人がいました。彼は自分のことをある愛称で呼ぶように言い、最初は少し戸惑いましたが、いつの間にか自然にそう呼ぶようになりました。彼は私のことを「マサ」と呼ぶようになり、別の同級生も同じく名前から「マサ」と呼ばれていたため、そちらは体格の違いもあって「大きいマサ」と呼ばれていました。

そうした仲間たちと、当時よく通っていた場所があります。

椿ハウスというディスコです。

普通の学生が毎日のように通える場所ではありませんでした。けれど、その友人や店長との縁もあって、無料で入れてもらい、飲み物や食べ物にも困らないことがありました。4、5人でほとんど毎日のように通い、朝まで踊り続ける。そこには、ファッションショーの打ち上げで来る人、モデル、スタイリスト、ショービジネスに近い人たちの空気がありました。

その頃の私は、それが何を意味するのかを、言葉ではわかっていなかったと思います。

ただ、場の中にいました。

服を着る人。見せる人。踊る人。空気をつくる人。そこにいるだけで、ある種の存在感を発する人。

ある著名な歌手の誕生日の場に居合わせ、その後、最終公演の楽屋に通されるという経験もありました。私は特別なファンだったわけではありません。それでも、その人を目の前にしたとき、一目で「すごい人だ」と感じたことを覚えています。

それは、知識としての評価ではありません。周囲の人の動き、空気の変わり方、本人の佇まい。その場にいなければ感じ取れないものがありました。

ただし、この時期の記憶は、明るいものばかりではありません。

私をそうした場へ連れ出してくれた友人とは、卒業後に会うことはありませんでした。そして数年後、その人の訃報を聞くことになります。

また、後に仕事で深く関わることになる仲間たちとも、結果的には望まない形で道が分かれていくことになりました。

だから、この時期を単なる華やかな青春として語ることはできません。

出会いは、道を開いてくれることがあります。けれど、その出会いが同じ形で続くとは限りません。ある人はきっかけをくれ、ある人は支えてくれ、ある人は世界の見え方を変えてくれる。それでも時間が経つ中で、別れや喪失が訪れることもあります。

その明るさと影の両方が、後の私の判断に静かに残っていきました。


デザイナーになるはずだった道から、営業の現場へ

専門学校生活も終盤に入り、いよいよ就職を考える時期になりました。

当初は、有名なデザイナーの会社へ行く話が進んでいました。あるデザイナーの方との縁があり、そこから紹介を受ける形で、下働きやパターンに近いところから始める予定でした。

デザイナーを目指して専門学校へ進んだ流れからすれば、自然な進路だったと思います。

ただ、そこに行ったとして、本当に自分がデザイナーとして伸びていけるのか。どこかで、自分自身をそこまで高く評価しきれていない感覚もありました。

そんなとき、別の話が入ってきました。

アパレル系の会社に就職した知人を通じて、専門店向けの部門で人を探しているから、責任者に一度会ってほしいという連絡があったのです。

私は一度断りました。

すでに行く予定の会社があり、紹介してくれた人への義理もあります。簡単に別の話へ動くわけにはいきません。

それでも、電話の向こうで相手がかなり熱心に話していたこともあり、紹介者の立場も考えて、会うだけ会うことにしました。

会ってみると、その人物は非常にエネルギッシュでした。

洗練されたデザイナーというより、どちらかといえば強い営業人、説得力のある人でした。弁が立ち、圧があり、人を巻き込む力がある。こちらが整理しきれていない内側のものを、質問で引き出してくるようなところがありました。

その人に聞かれました。

「君は何になりたいんだ」

咄嗟に出た答えは、「社長になりたい」でした。

深く考えていたわけではありません。ただ、そのとき頭に浮かんだ唯一の答えがそれでした。

すると、その人はこういう趣旨のことを言いました。

社長になりたいなら、デザイナーの下働きから入るよりも、まず営業を学んだ方がよい。セールスや交渉は、どの事業にも通じる万能のスキルになる。そのうえで経営に入った方が、あなたには強みになる。

私は、その言葉に納得してしまいました。

デザイナーになるはずだった道から、営業と経営へ向かう道へ。ここで進路が大きく変わります。

ただし、その選択の先に待っていたのは、穏やかな修業期間ではありませんでした。


厳しすぎる環境で、営業の基礎体力を叩き込まれた

入社後、私はその上司のもとで働くことになりました。

非常に厳しい人でした。

毎日のように何かしらで怒られ、1時間以上叱責されることも珍しくありませんでした。今の感覚で言えば、到底そのまま肯定できる働き方ではありません。

実際、出社したくなくなったこともあります。出社拒否に近い状態になったこともありました。

すると、その上司は私のアパートまで来ました。それも一度ではありません。何度も来て、説得され、引っ張り出されるようにして、また職場へ戻ることになりました。

今なら、それを美談にすることはできません。

ただ、その時期に、営業の現場で鍛えられたことも事実です。

その上司は、店舗を開拓する力が非常にありました。どこに可能性があるのかを見つける察知力、相手の懐に入る力、取引をつくる力。その点では、学ぶものがありました。

入社してから数年の間に、私の後にも多くの人が入ってきました。記憶では30人ほどいたと思います。けれど、最終的には全員辞めていきました。専門学校時代の仲間も、私と一緒に働きたいと言って入ってきたものの、長くは続きませんでした。

それほど厳しい環境だったのだと思います。

同業他社へ行くと、「あの人のところで続いているならすごい」「うちに来ないか」と言われることもありました。それほど、業界の中でも厳しい上司として知られていたのでしょう。

やがて、その上司はチェーン店や専門店との取引へ重心を移していき、私は個店を中心に見るようになりました。

当然、数字の規模では上司の方が大きい。個店をいくら積み上げても、簡単には勝てません。

けれど、あるとき思いました。

勝ちたい。

この人を超えたい。

自分が扱えるのは個店だとしたら、可能な限り多くの店を開拓すればよいのではないか。そう考え、店舗を回り始めました。

おそらく700店ほど回ったと思います。

その結果、入社から2年ほどで、私は上司を超えて営業成績で一番になりました。ボーナスも一番多くもらいました。

けれど、基本給は低かった。初任給は手取りで8万円ほど。2年いても12万円ほどだったと思います。

成果は出ている。評価もされている。けれど、待遇や働き方の前提は歪んでいる。

そのことに、私はなかなか気づけませんでした。

気づかせてくれたのは、再会した友人の一言でした。

「そんなに成績がいいのに、なんでそんな給料なの?」

「よくそんなに我慢できるね」

その言葉を聞いたとき、ふと思いました。

もしかしたら、自分は麻痺していたのかもしれない。

この気づきが、次の大きな転機につながっていきます。


条件だけなら断るべき会社だった

その友人が、ある会社の社長を紹介してくれました。

会いに行った場所は両国でした。当時の私は原宿や渋谷の空気が好きで、前職でも上司に頼んで原宿に事務所を構えてもらったほどでした。そこから見ると、両国のその会社はかなり地味に見えました。

会社に入った瞬間、正直に言えば、断ろうと思いました。

ところが、社長の顔を見て、少し様子が変わります。

青白い顔をしていました。そして、率直に言いました。

「実はうちは赤字会社です。3,000万円の赤字があります。それでも、もう一踏ん張りして何とか立て直したい。助けてください」

驚きました。

しかも、後から考えれば、赤字が3,000万円あるだけではありません。年商も3,000万円ほどしかなかったのです。

普通なら断ると思います。

年商と同額ほどの赤字がある会社です。どう考えても危ない。潰れる可能性の方が高く見えます。しかも、その会社は安定した転職先というより、明らかに再建を必要としている場所でした。

それでも、私は完全には断れませんでした。

理由はいくつかあります。

一つは、生産工場と直結できる可能性があったことです。問屋機能と工場機能をある程度兼ね備えたような構造に、私は興味を持ちました。もしかすると、動かせるかもしれない。そう感じたのです。

もう一つは、その社長の「助けてください」という言葉と表情でした。

条件だけ見れば、断るべき会社です。

けれど、その悪い条件の奥に、まだ動かせる余地があるように見えた。若かったのだと思います。妙な自信もありました。自分なら何とかできるのではないかという、根拠の薄い勢いもあったのでしょう。

結局、私は「とりあえず1年やってみましょうか」と答えました。

ただ、前職を辞めるのは簡単ではありませんでした。

上司に転職したいと伝えても、なかなか辞めさせてもらえない。結局、転職するまでに1年以上かかりました。

その間に、紹介してくれた友人は、先にその会社へ入っていました。

私が電話をすると、彼が出る。驚きました。

彼は、私が来るなら何とかなるだろうと思って、その会社に入っていたのだと思います。かなり無茶な信頼です。

そして1年後、私はその会社で本格的に働き始めることになります。


仕事をしていたというより、取りつかれていた時間

その会社では、よく働きました。

夜10時前に帰ることは、ほとんどなかったと思います。帰らない日もありました。事務所に段ボールを敷いて泊まることもありました。新宿で遅くまで飲んだときは、近くのサウナに泊まることもありました。3日、4日、同じ服で過ごすことも珍しくありませんでした。

今の感覚で見れば、無茶です。

その働き方を誰かに勧めることはできません。

けれど、当時の感覚としては、つらいだけではありませんでした。むしろ、どこか楽しかった。仕事をしていたというより、何かに取りつかれていたような感覚がありました。

友人とはよく寝食を共にしました。会社に泊まり、食事をし、また働く。生活と仕事の境界がほとんど消えていました。

そこへ、専門学校時代の別の友人も時々遊びに来るようになりました。冬になると、彼はスキーに誘いに来ました。私の仕事が終わるのを待ち、夜中に出発し、早朝にリフトが動くまで車の中で待ち、滑って、その日のうちに帰ってくる。そんなこともしていました。

彼は待っている間に手持ち無沙汰になると、会社の仕事を手伝ってくれることもありました。

不思議な時間でした。

働いているのか、遊んでいるのか、生活しているのか、もう境界が曖昧でした。

けれど、その熱の中で会社は動き始めます。

赤字だった会社は少しずつ立て直され、成長していきました。3年ほどで年商4億円規模まで持っていくことができました。

その成長を見て、取引先の社長から吸収合併のような話が出ます。今でいうM&Aに近いものだったと思います。

その結果、私は元の会社と、吸収する側の会社の両方で取締役を兼務することになります。

その後、かつての知人の縁から韓国との貿易も始まり、韓国現地法人の非常勤の役員に近い立場にも関わることになりました。

気づけば、アパレル関連、日本側の貿易系法人、韓国現地法人を含む複数社の役員を兼務する状況になっていました。

ここまでは、ある意味では順調でした。

会社は伸びていた。取引も広がっていた。自分も役割を与えられていた。

けれど、順調に見えるときほど、見えにくくなるものがあります。


伸びている会社の中で、前提が崩れ始めた

会社が順調に伸びていくと、うぬぼれのようなものが生まれることがあります。

それは、個人だけでなく、組織にも起きます。

これまでうまくいっているのだから、次も広げられるのではないか。自分たちのやり方は通用するのではないか。多少の無理は販売力で吸収できるのではないか。

そうした空気の中で、社長と会長が別の事業展開を試み始めました。

それまで韓国との貿易は、ある程度組織内の取引や流通の範囲にとどめていました。ところが、韓国で生産した商品を、現地法人を通じて他社にも販売していくという方向へ動き出したのです。

私は反対しました。

理由は明確でした。

不良品やB品の発生率が高かったからです。品質が安定していなかった。生産側には、製品の重さや材料をコントロールするような癖があり、糸を減らすようなことも起きていました。

それでも、私が責任を持っていた販売会社では、販売力で何とか吸収していました。現場にいたからこそ、その危うさが見えていました。

外部の会社に広げれば、クレームになる。返品になる。大きな損失になる。

そう見えていたから、役員として反対したのです。

しかし、私はナンバー3の立場でした。会長と社長の意向が強く、結局その事業は強行されました。

結果は、予想どおりでした。

クレームが入り、全返品になり、莫大な損失が発生します。

その頃、私は別ブランドを立ち上げる計画を持っていました。専門学校時代からの仲間を半ば強引に引き抜き、デザイナーも確保し、いよいよというところまで来ていました。

しかし、その損失を補填しなければならなくなります。

会長と社長が進めていた新規プロジェクトは、まだ利益を生んでいません。けれど、L/Cはすでに送っていて、決済しなければなりません。

結局、私が責任を持って運営していた会社側が、その損失を抱えるしかない状況になりました。

ここから、一気に転落していきます。

後になって、社長側の考え方や資金の流れについて、近くにいた人物から話を聞くことになります。説明のつかない資金の動きも見え始め、資金繰りは私が想像していた以上に悪化していました。

それで私は、懇意にしていた韓国企業の代表に、L/Cの決済ができない可能性があることを伝えました。

すると、その代表が日本へ飛んできました。私を交えて、会長と社長との直談判になります。

会長と社長は、大丈夫だと言いました。15日後には決済できるから送る、と。

けれど、それは現実にはなりませんでした。

そして急展開が起こります。

会長と社長が下した判断は、私を含めた全員の解雇でした。つまり会社に残るのは、会長と社長だけ。

この時点で、残された人たちの働く場所は失われかけていました。


創業は、夢ではなく責任として始まることがある

そのとき、私自身は会社を立ち上げるつもりはありませんでした。

むしろ、役員という立場には、もううんざりしていました。かつて「社長になりたい」と答えた気持ちは、かなり薄れていたと思います。

ところが、引き抜いてきた仲間たちがいました。

その中でも、専門学校時代からの仲間に対しては、特に責任を感じていました。彼をこちらの世界に引き込んだのは自分です。その人たちの働く場所が、突然失われようとしている。

そこで彼から言われました。

会社を作ってくれ。

自分たちは、もうそれしか考えられない。その方向で動いてほしい。

私は即座に前向きだったわけではありません。むしろ、創業などしたくないという感覚の方が強かった。

それでも、そう言われてしまえば、動くしかありません。

できることだけをやってみる。

そう約束して動き始めました。

すると、思いがけない速度で物事が進んでいきます。

その懇意にしていた韓国企業の代表が、商品は無料で作ると言いました。最初に支払わなくてよい。売れたら決済してくれればいい。そういう条件を出してくれたのです。

さらに、その方は私を連れて大阪へ行き、日本側の支援者からも了解を取りつけました。

私は、そもそも会社をどう作ればよいのかもよくわかっていませんでした。そこで、会社設立の方法が書かれた本を買いました。読んでいると、税務や会計の専門家が必要だとわかります。

前職の税理士に頼るのは気が引けました。

そこで、親類に公認会計士がいることを思い出し、相談に行きました。

すると、その親類から翌日、会ってもらいたい人がいると連絡がありました。会ってみると、投資家でした。

その人は私の話を聞き、協力したいと言い出しました。そして行動が早かった。韓国へ行き、代表と話をして、自分が資金面や運営面で関わるから、韓国側は商品を提供してほしいという流れをつくっていったのです。

気がつくと、会社設立の話は一気に進んでいました。

私の条件は、ただ一つでした。

自分一人のためではなく、4人が共に働ける環境をつくりたい。

それだけでした。

だから、最初の創業は、夢や野心から始まったものではありません。

崩れた現場があり、働く場を失いかけた仲間がいて、韓国側の社長、日本側の支援者、親類の会計士、投資家、それぞれの判断が連鎖し、気がつけば会社設立へ向かっていた。

会社は、一人の決意だけで生まれたわけではありませんでした。

それは、信頼と責任が、思いがけない速度で形になっていった結果でした。


後から見えるのは、判断の前提がつくられていく過程

ここまでの流れを振り返ると、最初の創業は突然起きたものではありません。

高校時代に、大学か就職かという二択に乗れなかったこと。

デザインの道へ進み、専門学校で負荷と刺激の両方を浴びたこと。

人との出会いによって、ファッションや仕事の世界への入口が開かれていったこと。

デザイナーの下働きから始めるはずだった道を外れ、「社長になりたい」と答えたことで、営業と経営の現場へ入ったこと。

過酷な上司のもとで営業の基礎体力を叩き込まれ、成果を出しながらも、自分が置かれている条件に麻痺していたこと。

友人の一言でその麻痺に気づき、赤字会社へ向かうことになったこと。

条件だけなら断るべき会社で、再建の余地を見てしまったこと。

仕事と生活の境界が消えるほど働き、会社が伸び、役割が広がっていったこと。

そして、品質、資金繰り、責任の境界線が崩れたとき、仲間の働く場所を守るために会社をつくるしかなくなったこと。

一つひとつは、その時点では別々の出来事でした。

けれど後から見ると、それらはすべて、判断の前提がつくられていく過程だったのだと思います。

私は、最初から整った計画を持っていたわけではありません。

むしろ、流れの中で問いを投げかけられ、人に出会い、環境に押され、ときに麻痺し、ときに気づかされ、ときに責任を引き受けるしかなくなりながら、次の場所へ進んできました。

だから、創業を単純な成功談として語ることはできません。

そこには、無謀さもありました。若さゆえの勢いもありました。見落としもありました。望まない別れもありました。人に支えられたことも、責任として背負ったこともありました。

そのすべてが、今の相談の場で大切にしている視点につながっています。

人は、整った条件の中だけで判断しているわけではありません。

むしろ、揺れた条件、崩れかけた関係、急な変化、誰かの言葉、説明しきれない違和感の中で判断しています。

だからこそ、相談の場では、表面の選択肢だけを見るのではなく、その人がどの前提の中で迷っているのかを見立てる必要がある。

私が最初の創業に至るまでの時間は、そのことを身体で学んだ時期だったのだと思います。



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